11月21日、連合は結成25周年を迎える。四半世紀を経て、連合運動の地歩は揺るぎないものになっているが、結成の頃を直接知る組合役員は少なくなっている。
労働界の「悲願」と言われた労働戦線統一は、いかにして成し遂げられたのか。
その連合運動の原点を次代に語り継いでいくべきではないか。そんな問題意識から、結成25周年に向け、労働界の先輩や連合結成を力強く応援して下さった人たちの「オーラル・ヒストリー」プロジェクトが進められてきた。何が統一への原動力となったのか。
これからの連合運動を考えるためにも、いま振り返ってみたい。
歴史を辿ると、1989年11月の連合結成に至るまでには、やはり四半世紀近い「前史」があった。本格的な労働戦線統一への起点となったのは、1970年11月に発足した民間6単産(電機労連、鉄鋼労連、全鉱、全金同盟、電労連、全機金)による「統一世話人会」だ。これは、労働4団体(総評・同盟・中立労連・新産別)の了解による拡大世話人会を経て、翌年「民間単産連絡会議」(以下、「22単産会議」)へと発展するが、路線や政治ストの是非などをめぐる総評と同盟の対立から73年に解散。
しかし、統一の灯は消えなかった。同年11月には「民間労組共同行動会議」が発足、再びそこで生じた対立をバネに75年2月には10単産書記長による有志懇談会が持たれ、76年10月に「政策推進労組会議」へと拡大発展。同会議は、「経済政策」「雇用」「物価」「税制」の4大要求を重点に掲げて、対政府交渉、大衆行動などを積極的に展開し、構成組織間の信頼と連帯感を強め、全民労協、民間連合、そして官民統一の連合結成の礎となった。
以上が、連合結成の公式的な前史だが、じつは別の形でそれを後押しする動きが存在し、統一推進グループの結集という重要な役割を果たしたという。当時を知るOBが、その[秘話]を語り合った。
「オーラル・ヒストリー」プロジェクトの成果は、約2年をかけて『語り継ぐ 連合運動の原点』と題する冊子にまとめられ、11月21日に発行される。連合結成に尽力した諸先輩や関係者の証言を採録し、連合結成小史や当時のマスコミ論調などを合わせて編んだ貴重な一冊だ。執筆にあたったのは、57年の長きにわたって労働ジャーナリストとして活躍する飯田康夫氏。取材・執筆を通じて感じた結成当時の息吹とこれからの連合運動へのメッセージを聞いた。
いま、様々な制度が「働くこと」を支えている。育児休業や介護休暇などの両立支援制度も、あたり前のこととして職場に定着しつつあるが、その土台となる法制度が実現したのは、1980年代後半から90年代であり、その過程に労働組合の女性たちは深く関わってきた。
それは、連合運動をかたちづくっていく、1つの大きな流れともなった。とりわけ、連合ができて、初めて「連合」として取り組んだ「育児休業法制定」に向けては、職場、地域、審議会、国政の場で、様々な運動が展開されたという。そこでどんな議論があったのか。
法制化実現の原動力となったのは何か。第一線で奔走した連合OGがその取り組みを語る。