第1弾:沖縄からのメッセージ
連合は6月から9月を「平和行動月間」と位置づけて、毎年、沖縄・広島・長崎・北海道(根室)で「平和4行動」を展開し、日本全国からの参加を呼び掛けている。平和の大切さを社会に広く訴えるとともに、二度と戦争の悲劇を繰り返させてはならないという思いを未来へつなげていくためだ。
戦後70年を迎え、今、次世代に何を継承していかなければならないのか。
沖縄の「語り部」中山きくさんのお話と、連合沖縄から寄せられた平和への思いについてメッセージをご紹介します。
悲惨な地上戦 ~沖縄~
中山きくさん 元白梅学徒隊 1945年6月の沖縄戦当時、沖縄県立第二高等女学校4年生で16歳。
白梅学徒隊としての第一野戦病院の看護助手を務める。
平和に逆行するようなことが起こったら必ずそれを止めるために行動してください
私は「十五年戦争」の時代に生まれ、学校でも家庭でも地域社会でも、「お国のために」という軍国主義教育を受けて育ちました。子ども時代はほとんど戦争に関わる思い出しかないんです。女学校に入学した年に太平洋戦争が始まりました。
1944(昭和19)年3月ごろ、沖縄防衛のための日本軍が集結。
校舎は兵舎になり、女学生も基地づくりに動員される。
夏休み前になると、幼い子どもやお年寄りは疎開させられました。その時点で沖縄が戦場になることは、分かり切った事実だったんです。知らないのは、私たちだけでした。8月22日に学童疎開船の対馬丸が米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没しました。千数百人が亡くなりましたが、そのことも知らされませんでした。
薬品も包帯も底をついて
1944年10月10日、南西諸島大空襲で那覇市の90%が焼失。
学校も焼けて、那覇市で下宿生活をしていたきくさんは佐敷村(当時)の実家に戻った。
1945(昭和20)年2月ごろ、学校から傷病兵を看護する目的で看護教育を受けるようにと連絡があったんです。家族は心配して「行かないでくれ」と言いましたが、私は受けることにしました。看護学を学んで役に立ちたいと一生懸命でした。しかし、わずか18日間で看護教育は打ち切られたんです。
18日目の3月23日、沖縄本島南の海上からアメリカ軍の艦砲射撃が始まった。
沖縄の10の女学校すべてで「学徒隊」が結成され、沖縄戦の傷病兵の看護に当たった。
沖縄県立第二高等女学校の生徒は「白梅学徒隊」として第二十四師団「山」部隊の第一野戦病院に配置された。
女子学徒隊がいなかったら、野戦病院は成り立たなかったでしょう。私は5人の仲間と手術場壕に配置されました。重傷者が運ばれて、手か足の切断、あるいは体内の弾を切開をして取り出す手術をしました。4月の半ばごろまでは麻酔をしていましたが、量も足りなくて、メスを入れたとたん「やめてくれ、切らないでくれ!」と叫ぶんです。私と仲間がロウソクを持って軍医さんが手術をするんですが、見るに耐えなくて顔を背けると、「明かりをしっかり照らせ!」と怒鳴られました。日を重ねるうちに、「今縫合してますから、もうすぐ済みますよ」と声を掛けることができるようになりました。とにかく一生懸命でした。でも、5月半ばごろには薬品も包帯材料も底をついて…。
6月4日、病院長から「4月1日に沖縄本島中部の西海岸にアメリカ軍が上陸して首里まで占領された。あと3、4日でここまで来る。今日でこの病院を閉めるから、君らは南部の安全な所に行ってくれ」と解散命令を受けました。ショックでした。壕を出てどこへ行けばいいのか分かりません。でも、崖を登って道に出ると、お祭りか何かのように大勢の避難民が列をなして南へ南へと歩いていました。
空からは爆撃、海からは艦砲弾が飛んでくる中、何万人もの避難民とともに、日中はやぶに隠れ、夜に移動するという日々が1カ月近く続いた。
南へ行けば行くほど、犠牲者の遺体が溝やキビ畑の周りに増えて、海岸波打ち際にもたくさんの遺体があったんです。夜に行動しますから、暗闇で遺体を踏んづけて、「ごめんなさい」と詫びたり…。疲れ果てて「死んだ方が楽かもしれない」と何度も思いました。食べるものもありません。黒糖の塊をときどきかじって砲弾の穴にたまった水を飲みました。
ようやく南部の海岸にたどり着いたが、米軍はすでに南部にも侵攻して戦車からの機関銃掃が激しくなっていた。
夜、誰かが音を立てると、これでもかというくらい銃弾が飛んでくる。「敵陣突破」でまた北へ行くしかありません。
小学校からの親友ちよちゃんと一緒に北へ北へと向かっていたある日、一斉にものすごい機関銃掃射を受けました。けがをした人たちが、手榴弾で自決する音が聞こえました。あっちでもこっちでも、パーン、パーンと…。
実は、私も解散の時に手榴弾を1個もらっていたんです。私は、恐怖と疲労でちよちゃんに「私たちもここで自決しよう」と持ちかけました。ところが、ちよちゃんが猛烈に反対しましてね。「嫌だ! 自決するのは怖いから嫌だ!」と。それからは生きるために一生懸命逃げ隠れしました。そうこうしているうちに、私たちは運よく佐敷村の近くまで来ていたんです。日本軍の兵隊さんに佐敷村が捕虜の収容所になっていると教えられ、「君らは軍人ではないんだから死ぬ必要はない」と言われました。翌日明るくなってから村に向かうと、すぐにアメリカ軍に見つかりました。しかし、手荒なことはまったくなかったです。水を勧め、チョコレートを勧めてくれました。「嫌です」と食べなかったんですけどね。
私は、その後すぐに家族と暮らすことができましたが、私の仲間たちは、捕虜になって、船で北方へ送られ、親にも長いこと会えず、マラリアにかかったりして大変な苦労をしました。
戦争に正義はありません
まもなく終戦を迎えたが、白梅学徒隊の女子生徒は22人が亡くなった。
沖縄は1972年までアメリカの施政下に置かれた。
戦争が終わっても、私は生きているのが申し訳なくて、ご遺族の方に会うのがとてもつらかった。就職、結婚、出産など人生の大きな節目には必ず仲間たちのことが思い出されました。
私の夫は国家公務員で、祖国復帰の2年後に転勤命令が出て、奇しくも最初が広島、その次が長崎に一緒に行くことになったんです。広島、長崎で被爆者の方の話を聞いたり、資料館に行って、原爆被災と沖縄の地上戦は、どうしても後世に残さなければならないと思いました。それで、沖縄に戻ると、生き残った白梅学徒の仲間たちに「記録を作ろう」と呼び掛けたんです。最初は「戦争のことは思い出したくない!」と言われましたが、22人の仲間が記録を寄せてくれました。犠牲になった仲間のことも数年がかりで情報を集めて書き記しました。戦後50年目にようやく本にして出すことができました。以来、私は前向きに「戦争の悲惨さを伝えていく側に回ろう」と…。今振り返ってみると、語り部の活動をしてきて大変良かったと思います。
戦争には正義はありません。戦争はこの世の中の一番の不幸です。命と平和が大事だと誰でも分かっているのに、その命をむざむざ奪ってしまうのが戦争です。平和に逆行するようなことが起こったら、必ずそれを止めるために行動してください。心に思っただけでは黙認です。平和な国をつくるには、過去にあった戦争の姿を知ることが大事です。私は、沖縄の人たちが、空からも海からも陸上からも攻撃され、「鉄の暴風」の中を逃げ回っていた光景が今でも忘れられません。知らなければ同じ過ちを犯す恐れは十分にあります。
戦後70年、戦争体験者は高齢になって体力も気力も衰えてきました。ここで戦争体験者から次世代の若者たちに平和のバトンを引き継ぐ潮時ではないかと思います。若い皆さん、どうか私たちから平和のバトンを受け継いで、戦争のない平和な日本を守り続けてください。最後に心からお願いいたします。
~「平和4行動」連合沖縄からのメッセージ~
連合沖縄は「平和4行動」の一翼を担う地方連合会であることを意識するとともに、「私たちが安心して暮らし、働き、労働運動に携わるには、『社会が平和で安定していること』が大前提」という連合の基本認識を踏まえて平和行動を展開している。
戦後70年の節目を迎える今年、多くの皆さんに行動への参加を呼び掛けたい。住民に自決を強要した日本軍の実態と戦争の狂気、いまだに県民を苦しめている米軍基地問題の実相など、「見て・聴いて・触れて・感じる」ことで得られる収穫は決して少なくないと思う。
運営面も見てほしいポイントの一つだ。例えば若年層組合員の皆さんによる「ピースガイド養成講座」 を行っているのだが、企画を含めて若い皆さんにお任せしている。
生き生きと活躍する彼らの頼もしい姿にも注目してほしい。
沖縄県民を無視する安倍政権
日本は先の大戦による悲惨な経験の反省に立ち、国際紛争の解決手段として武力を放棄し、人道主義に徹することによって国際的な信頼を築き上げてきた。しかし安倍政権は、国会における数の力を背景に、従属的ともいえる日米関係の構築が最良の策であるかのごとく突き進んでいる。多くの沖縄県民の意向を無視した「辺野古新基地建設強行」による米軍基地機能強化はその最たるものだ。
戦争体験者が少なくなる中、「語り部」として活躍されている中山きく先生(86歳)から「これからは皆さんが、『語り部』になって伝えていってほしい」と投げ掛けられている。私たちは戦争を体験していないが、体験者の思いに近づく努力をすることはできる。
平和な社会の実現に向けて、戦後70年の節目を迎える今夏の行動を意義のある取り組みにしていきたい。
※こちらの記事は日本労働組合総連合会が企画・編集する「月刊連合 2015年6月号」に掲載された記事をWeb用に編集したものです。「月刊連合」の定期購読や電子書籍での購読についてはこちらをご覧ください。