7つの絆

 

北方領土返還要求運動

北方領土の早期返還、日ロ平和条約の締結をめざして

平和ノサップ集会

 連合は、北方領土の早期返還と日ロ平和条約の締結を求める運動に取り組んでいます。

 択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞群島(はぼまいぐんとう)からなる北方四島は、日本固有の領土です。

1.北方領土とは

 北方領土とは、北海道の北東に位置する択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島のことで、北方四島とも呼ばれます。
 この北方四島は一度として、日本以外どこの国の領土にもなっていない、日本固有の領土です。

北方領土

 択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島からなる北方四島。その総面積は5,003平方kmと、福岡県(4,987平方km)より少し広く、沖縄本島(1,199平方km)の4倍強という広大な領土です。
 しかし、第二次世界大戦で日本が降伏の意思を明確に表明した後に、ソ連軍が北方四島に侵攻。日本人住民を強制的に追い出し、今日に至るまで不法占拠・実効支配を続けています。これが「北方領土問題」であり、日本として北方四島の返還を求めていることが「北方領土返還要求運動」です。

2.日魯通好条約(1855年)からポーツマス条約(1905年)まで

(1)日魯通好条約(1855年)
 1855年2月7日(安政元年12月21日)、日本とロシアは「日魯通好条約(日本国魯西亜国通好条約)」を締結。この条約の第2条では、択捉島とウルップ島(得撫島)の間を両国の国境とし、択捉島以南を日本領、ウルップ島以北のクリル列島(千島列島)をロシア領と定めています。なお、このとき樺太(からふと)(サハリン)は国境を定めず、両国民混住の地としました。
 以来、北方四島は一度として、日本以外どこの国の領土にもなっていません。このことから、北方四島が日本固有の領土であることは明らかです。

日魯通好条約(1855年2月7日)

(2)樺太千島交換条約(1875年)
 その後、1875年5月7日、日本とロシアは「樺太千島交換条約」を締結。日本は樺太をロシアに譲り渡すかわりに、ロシアから千島列島を譲り受けました。この条約の第2款では、日本に譲り渡される千島列島として、最北東端の占守島(しゅむしゅとう)から最南端の得撫島(うるっぷとう)までの島名を明記するとともに、占守島とカムチャツカ半島との間の海峡を両国の国境と定めています。
 ここでも、島名が列挙された千島列島に含まれているのは占守島から得撫島までであって、北方四島は含まれていません。このことから、北方四島が千島列島と異なる扱いであることは明らかです。

樺太千島交換条約(1875年5月7日)

(3)ポーツマス条約(1905年)
 さらに、1905年9月5日、日本とロシアは日露戦争の講和条約として「ポーツマス条約(日露講和条約)」を締結。この条約の第9条では、樺太のうち北緯50度線以南およびその付近の島(海馬島(かいばとう)、海豹島(かいひょうとう)、二丈岩(にじょういわ)など)を日本に譲り渡すと定めています。これにより、南樺太は日本領となりました。

ポーツマス条約(1905年9月5日)

3.北方領土への侵攻・占領

 1941年4月13日、日本とソ連は「日ソ中立条約(大日本帝国及『ソヴィエト』社会主義共和国連邦間中立条約)」に署名。相互不可侵を約束していました。
 しかし、第二次世界大戦で日本の敗色が濃厚となった1945年4月5日、ソ連はこの条約の不延長を日本に通告しました。そして第二次世界大戦末期の1945年8月8日、ソ連は米英両国との「ヤルタ協定」(1945年2月11日署名)にもとづいて、日本に宣戦布告。翌1945年8月9日には満州への侵攻を、1945年8月11日には南樺太への侵攻を開始しました。
 さらに、1945年8月14日には日本が「ポツダム宣言(日本への降伏要求の最終宣言)」を受諾し、降伏の意思を明確に表明していたにもかかわらず、1945年8月18日、ソ連軍がカムチャツカ半島から侵攻して千島列島最北東端の占守島に上陸。以降、占守島では1945年8月21日までの間、千島列島で唯一の戦闘が行われました。ソ連軍はそれから順次、千島列島を南下して1945年8月31日には千島列島最南端の得撫島まで不法占拠しました。

ソ連軍侵攻の状況(1945年8月11日~

 また、1945年8月26日、別部隊のソ連軍が既に不法占拠していた南樺太の大泊(おおどまり)から侵攻を開始して、1945年8月28日に択捉島の留別(るべつ)へ上陸。次いで、1945年9月1日に国後島の古釜布(ふるかまっぷ)、色丹島の斜古丹(しゃこたん)へ上陸。さらに、1945年9月4日に歯舞群島の各島へ上陸。1945年9月5日には北方四島すべてを不法占拠しました。

ソ連軍侵攻の状況(1945年8月28日~)

 その結果、北方四島に居住していた17,291人(択捉島3,608人、国後島7,364人、色丹島1,038人、多楽島(たらくとう)1,457人、志発島(しぼつとう)2,249人、勇留島(ゆりとう)501人、秋勇留島(あきゆりとう)88人、水晶島(すいしょうとう)986人)の日本人住民は、それぞれ島からの脱出または樺太での収容生活を経ての強制退去を余儀なくされました。
 それに加えて、1946年2月2日、ソ連は「南サハリン州の設置に関するソビエト連邦最高会議幹部指令」を発出。一方的に北方四島、千島列島、南樺太をソ連憲法およびロシア共和国憲法の適用地域として土地や所在資源などを国有化し、ソ連領に編入すると宣言しました。

4.領土不拡大の原則

 第二次世界大戦における連合国側の戦争遂行に関する原則であり、かつ戦後処理の方針として「領土不拡大の原則」があります。
 この原則は、戦争によって領土その他の拡大は求めないというもので、「大西洋憲章」(1941年8月14日署名)の第1項・第2項で記されています。また、「カイロ宣言(日本国ニ関スル英米華三国宣言)」(1943年11月27日署名)でも同様のことが記されているほか、戦後処理の方針として、「暴力・貪欲により日本国の略取したる」地域を剥奪することが記されています。
 なお、ポツダム宣言の第8項には、カイロ宣言の条文は履行されなければならないと記されています。このことから、日本は「領土不拡大の原則」の下で戦後処理が行われるとの前提で、ポツダム宣言の受諾(=降伏)を受け入れたものであること、また、過去の歴史的経緯から、日本固有の領土である北方四島が「暴力・貪欲により日本国の略取したる」地域に該当しないことは明らかです。

5.サンフランシスコ平和条約(1951年)と日ソ共同宣言(1956年)

(1)サンフランシスコ平和条約(1951年)
 1951年9月8日、日本は「サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)」に署名(1952年4月28日発効)。日本は主権を回復するとともに、この条約の第2条c項にもとづき、千島列島と南樺太に対するすべての権利、権原および請求権を放棄しました。
 なお、ソ連はこの条約の署名を拒否。そのため、ソ連との間では個別に平和条約の締結に関する交渉が行われたものの、領土問題をめぐって難航。その結果、領土問題を含む平和条約の締結に関する交渉は、両国の国交回復後に行うこととしました。

サンフランシスコ平和条約(1952年4月28日)

(2)日ソ共同宣言(1956年)
 1956年10月19日、「日ソ共同宣言(日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言)」の署名をもって、両国の国交が回復しました。この宣言の第9項では、平和条約の締結後、色丹島と歯舞群島をソ連から日本に引き渡すと定めています。
 しかし、平和条約は未だ締結されず、今日に至っています。

6.北方領土の現状

 ソ連そしてロシアによる北方四島の不法占拠・実効支配は今日に至るまで続いており、故郷を追われた日本人の元住民の方々は、お墓参りさえ自由にできない状態が続いています。

現在の状況

 近年、ロシアは北方四島など(※現在、民間人の定住者がいるのは択捉島、国後島、色丹島、幌筵島(ぱらむしるとう)の4島だけ。歯舞群島は多楽島、志発島、水晶島の国境警備隊、占守島は灯台守のみ)のインフラ整備に力を入れており、「2006~2015年クリル諸島社会経済発展計画」に続き、「2016~2025年クリル諸島社会経済発展計画」にもとづく開発を進めています。また、択捉島と国後島で軍事施設の整備を進めており、北方四島におけるロシア領としての既成事実化がいっそう懸念されています。

 北方領土の早期返還、そして日ロ平和条約の締結もまた、私たちが安心して暮らせる平和な社会の実現に欠かせないものなのです。

「平和行動 in 根室」をはじめとする多くの行動
1.「平和行動in根室」

 連合は、北海道根室市において毎年9月に「平和行動 in 根室」を開催。北方四島に最も近い納沙布岬(のさっぷみさき)での「平和ノサップ集会」や北海道立北方四島交流センター(ニ・ホ・ロ)での「北方四島学習会」などを行っています。

2.国民運動としての北方領土返還要求運動
北方領土返還要求全国大会

 連合は、「平和行動in根室」のほかにも、北方領土の返還を求める行動に参画を続けています。

 各地方自治体をはじめ、北方領土返還要求運動連絡協議会(北連協)、独立行政法人北方領土問題対策協会(北対協)公益社団法人千島歯舞諸島居住者連盟(千島連盟)、北方領土返還要求運動都道府県民会議など、様々な団体・機関が北方領土返還要求運動に取り組んでいます。
 1855年、日魯通好条約が締結された日にもとづく「北方領土の日」である毎年2月7日に開催の「北方領土返還要求全国大会」。1945年、安藤石典・根室町長(当時)がダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官に北方領土返還を求める陳情を行った、北方領土返還要求陳情第一号の日である毎年12月1日の「北方領土返還要求中央アピール行動」。連合は、様々な団体・機関と連携・協力し合い、これらの行動にも参加しています。

3.北方四島交流事業(ビザなし交流)
「第2回連合の船」出発式

 1992年より、「北方四島交流事業」が始まりました。この事業は、日本人と北方四島在住ロシア人との交流を通じて相互理解を進めるとともに、北方四島返還に伴う北方四島在住ロシア人の不安などを軽減・解消しようとするものです。これまでに23,000人を超える日本人と北方四島在住ロシア人が相互に訪問しています。
 連合は、この事業において2004年と2005年の2回、民間団体として初の「北方四島ビザなし交流・国後島訪問 連合の船」を独自で実施しました。

4.北方四島の日本建築

 北方四島にあった戦前からの建物(約3,250棟)については、その大半が1960年代に取り壊されてしまいました。しかし、北方四島交流事業を通じて、択捉島の紗那(しゃな)に、戦前から残された数少ない建物である択捉島水産会事務所と旧逓信省の紗那郵便局が確認されました。
 特に紗那郵便局は、1945年8月28日にはソ連軍の侵攻・上陸を通報する緊急打電のほか、1945年9月2日にはソ連軍占拠前最後の電文を根室落石無線局に向けて発信したという歴史的舞台でもありました。

 北方四島に日本人が住んでいた証しを残したいとの思いから、この両建物については、「北方領土日本家屋保存友好委員会」を発足させるなど、官民一体となって保存運動に取り組み、北方四島交流事業の中で日本人建築士が現地計測の上、平面図と立面図を作製しました。

 中でも紗那郵便局は、2005年発行の郵便切手にも図案として取り入れるなど、両建物の保存に向けた世論喚起に努めたところですが、残念ながら、択捉島水産会事務所は2012年に、紗那郵便局は2015年に、いずれも老朽化による危険性を理由に解体されてしまいました。


択捉島水産会事務所

紗那郵便局

左:択捉島水産会事務所、右:紗那郵便局
(いずれも2005年7月撮影)

 しかし、その後の調査で、択捉島の紗那には、旧紗那国民学校(※1938年の建設当時は紗那尋常高等小学校)の校舎や旧紗那測候所の建物が残っていること、紗那鮭鱒孵化場は今日でも現役の鮭鱒孵化場として使われていることが明らかになっています。


旧紗那国民学校(2017年7月撮影)
(写真提供:北方領土返還要求運動連絡協議会)
(※2020年、写真右側の部分など一部解体)

紗那鮭鱒孵化場

 そのほか、択捉島の紗万部(しゃまんべ)には、大正初期に作られた缶詰工場の岸壁や石垣が残っていることも明らかになっています。



紗万部に残る缶詰工場の岸壁と石垣
(写真提供:北方領土返還要求運動連絡協議会)

紗万部に残る缶詰工場のボイラー
(写真提供:北方領土返還要求運動連絡協議会)

 また、色丹島のチボイにある灯台は、現在も灯台として使われています。


チボイ灯台
(写真提供:北方領土返還要求運動連絡協議会)

 このように、外観などを改装された戦前からの建物が残っている可能性もあり、その発見・保存に向けた今後の動きにも注目が集まっています。

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