（月刊連合2021年5月号転載）
皆さま、こんにちは。新年度が始まって1カ月がたとうとしています。異動や役職変化があった方は慣れてこられたでしょうか。新入社員も研修が終わるといよいよ配属、そして段々本格的に業務に入っていくところかと思います。
新しい立場に立つと、こうなりたい・こうしたいという理想が出てきます。理想が必ずしも思い通りにいかないことは、経験を重ねるうちに誰しも実感するものです。幹部という立場の方には自明のことでしょう。理想を掲げながら、現実を見据えて理想に向かって地道な努力をしておられることでしょう。一方、新入社員が入社して早々「思っていたのと違った」と言って辞めてしまったり、「こんな仕事をするとは思わなかった」とやる気を出さない場面に遭遇することも少なくないのではないでしょうか。理想と違ったから、という理由です。逆に、完璧にこなそうと頑張りすぎて潰れてしまう若手もいることでしょう。両方とも、理想と現実のギャップに適応できない状態と言えます。
メンタルヘルスの現場では、理想と現実のギャップに苦しむ青年期の患者さんは珍しくありません。思っていたのと違う、何か困難に遭遇して適応できなくなった「適応障害」。もっと能力を発揮したい・しなければと思うのに仕事についていけない中でうつ病や不安症を発症することもあります。拒食症も理想でない自分を許せないのが典型的です。
心の発達において、思春期は自分に注意が強く向き、自分は何でもできるはず、あるいはできなければいけないと思いがちな時期です。青年期後半はそこから様々な現実に直面し、うまくいかない体験も通して、自分が理想通りに素晴らしいわけではない、でも全くだめなわけでもなく、できるところとできないところがあって、まあまあOKだ、という現実を受け入れていく時期です。
新年度に多い就職・転勤・部署異動・役職変化等は、「新しい仕事への適応」です。就職や昇進はおめでたい、しかしとても大きな変化です。学生から新入社員となった人は、慣れ親しんだ学生生活と別れて、社会人という責任ある世界に足を踏み入れることになります。就職を機に親元から離れる人もいます。これは、「就職」の他に「引越」「親に保護される生活から一人で何でもする生活」等、多種類の変化に適応する必要があるということです。昇進も、「元の立場との別れ」「新しい役割への適応」の他、もし部署異動や転勤を伴っていれば「元の部署との別れ」「新しい部署への適応」に加え引越や、家族と共にする生活との別れも伴っているかもしれません。
それがうまくいっていない青年がたくさんいます。親の大事な役割は、子どもに理想を押し付けることではなく、子どもが現実の中で生きていける力を育むこと、理想と現実のすり合わせができるようにすること、のはずです。しかし実際には、親の過大な期待に潰されるケースのほか、親の敷いた「線路」をひた走って受験競争などを勝ち抜き、自分は優秀で何でもできると思い込んでしまって、うまくいかない場面で簡単に挫折する青年も見られます。そういう人は、それまでうまくいっていた自分が「本当の自分」で、うまくいかないのは職場が悪い、あるいはこの病気（たとえばうつ病）が悪いと考えることもあります。理想に届かない現実の自分を認めるのは、一種の喪失なので難しいのです。逆に、挫折した自分は価値がないと考えて絶望してしまう人もいます。精神療法では話を聴くことを通じて、等身大の自分を見て受け入れることを援助します。
職場は生産性を高めるなど、その職場独特の目的を持っていますが、人が成長していく場所でもあります。青年が一歩一歩前に進めるようサポートするにはどうしたら良いでしょうか。正解はありませんが、そこに知識を絞れる職場は、間違いなく成長する職場であろうと思います。
矢吹弘子 やぶき・ひろこ
矢吹女性心身クリニック院長
東邦大学医学部卒業。東邦大学心療内科、東海大学精神科国内留学を経て、米国メニンガークリニック留学。総合病院医長を経て1999年心理療法室開設。2009年人間総合科学大学教授、2010年同大学院教授、2016年矢吹女性心身クリニック開設、2017年東邦大学心療内科客員講師。日本心身医学会専門医・同指導医、日本精神神経学会専門医、日本精神分析学会認定精神療法医、日本医師会認定産業医。
主な著書：『内的対象喪失－見えない悲しみをみつめて－』（新興医学出版社2019）、『心身症臨床のまなざし』（同2014）など。