1948(昭和23)年、長野県の野尻湖畔の旅館経営者が湖底からナウマン象の臼歯を発見したことをきっかけに、1962(昭和37)年の本格的な第1次発掘調査以降、ナウマン象の化石が次々と発見されていった。私も小学生時代の家族旅行で野尻湖の発掘現場に連れて行ってもらったことをよく覚えている。ナウマン象は、2万年前まで日本に生息していた象の仲間でアジア象やアフリカ象よりもやや小型で、34万年前の氷期で海面が下がり、陸続きとなったユーラシア大陸からやってきたと考えられている。化石は、明治時代初めに神奈川県の横須賀市で発見されたのが最初で、東京帝国大学の地質学博士であったドイツ人のエドモンド・ナウマンの研究・報告から、彼の名前を採って「ナウマンゾウ」と名付けられたとされる。東京都の日本橋や神奈川県の藤沢市、瀬戸内海など北海道から九州まで広く見つかっている。
千葉県の公立中学校教員となった私は、印旛沼周辺の11市町村150校余りの小中学校を管轄する千葉県教組の印旛支部で組合役員の経験を積んだが、その中で印旛沼のナウマン象の存在を知った。1966(昭和41)年、北印旛沼と西印旛沼を結ぶ印旛捷水路の工事で発見された化石は、頭・胸・足の骨がそろった約3万年前のものと判明した。ほぼ完全な形で一頭分が埋もれていたのは、発見された地層から当時は沼地で、象は水を飲みに沼に近寄り泥水にはまって死んだものと推察された。印旛沼の畔にある双子公園にはナウマン象の親子像がある。見晴らし台から印旛沼を望み、はるか昔に、豊かな大地の中を悠々と歩くナウマン象の群れを想像することは難くない。
印旛沼を望む高台の一角には、大小115基(前方後円墳は37基)の古墳が造られ、近くの寺院の名前にちなんで「龍角寺古墳群」と呼ばれている。全国でも有数の古墳時代後期から終末期(6~7世紀)の古墳群として国の史跡に指定され、なかでも、一辺約80mの「岩谷古墳(龍角寺105号墳)」は、7世紀では全国最大級の方墳(四角い墳墓)として知られている。6世紀の終わりごろになると、前方後円墳を象徴としたヤマト王権の政治体制に変革の気運が高まり、前方後円墳は近畿地方の中心部で一斉に築かれなくなり、まもなく西日本一帯で造営が停止された。王族や豪族の墓は、当時の先進地域であった中国や朝鮮半島の王陵に倣って方墳や円墳に変わった。前方後円墳の威光を保ち続けた房総でも、7世紀になると各地の主な首長墓が方墳へと変わっている。事実、下総国中部を支配した印波国造(いんばのくにのみやつこ)一族の墓と考えられている「岩谷古墳」は、龍角寺古墳群中、最後の前方後円墳となった「浅間山古墳(龍角寺111号墳)」に後続して築造されたと推定されている。
一帯は、体験博物館「千葉県立房総のむら」として整備され、風土記の丘資料館では、発掘された遺物の展示以外に土器作り・勾玉作りなど古代の技を体験できる。また、江戸時代の商家の町並みが再現されており、千代紙ろうそく作り・煎餅焼き・張り子の絵付けなどのものづくりや食の体験、藍染め・浮世絵摺り・竹細工などの匠の技体験、米作り・収穫体験などの農家の技体験、茶道や甲冑などの試着体験を通した日本の伝統文化に触れることもできる。さらに、全長5㎞ほどの遊歩道を巡ると移築した武家屋敷や農家が散在し、国の重要文化財となっている1899(明治32)年に建築された「旧学習院初等科正堂」も見学できる。
ようやく涼しさを感じる秋となった。家族や一人旅で、歴史と自然を直に感じる房総のむらや印旛沼周辺を訪ねてみては如何か。初詣で有名な成田山新勝寺や成田国際空港も近い。