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ユニオンヒストリー

[2]労働基準緩和と連合ワークルール3法
労働組合が受け身の姿勢では
職場で起きている問題を解決できない

「ワークルールと労働組合」の本編は、1990年代後半から本格化した雇用労働分野の規制緩和の動きと、それに対する労働組合の「攻防」の歴史に焦点をあてる。
実は、働く人たちを守るワークルールとして定着している、労働契約法やパートタイム労働法、労働契約承継法、あるいは労働審判制度も、この動きの中で労働組合が「新しいワークルールをつくろう」と提起し、実現に至ったものだ。
そして、その推進力となったのは、連合が2001年にとりまとめた「連合ワークルール3法(労働契約法、パート・有期契約労働法、労働者代表法の法案要綱)」。
1999年10月に連合本部に着任し、10年にわたって審議会や国会対応の最前線で奮闘した長谷川裕子元連合総合労働局長の証言を交えて、その歴史をたどってみよう。

規制緩和の目的は「解雇しやすく、使い勝手のいい労働者」

『月刊連合』2002年3月号

「守る」のではない
「攻め」のワークルールづくりが必要になってきた

これは『月刊連合』2002年3月号の特集タイトル。「連合ワークルール3法」を提起するに至った背景とその内容が詳しく解説されている。
なぜ、連合は「攻め」のワークルールづくりをめざしたのか。

1990年代初め、バブルが崩壊し、日本経済は、巨額の不良債権、財政不均衡、産業空洞化などの構造的問題を抱え、出口なき長期不況へと迷いこんでいった。
企業は、過剰設備の整理や雇用調整などのリストラを進め、雇用情勢は急激に悪化。労働相談の窓口には、解雇や雇い止め、出向や転籍、退職勧奨、労働条件の一方的な切り下げなどの相談が殺到した。

経済回復の兆しは見えず、不況から脱するには、規制をとっぱらい、自由な市場に委ねるべきだという「市場万能主義」の考え方が広がった。経済界からは、もっと迅速に大胆にリストラを進められるよう、企業組織再編や雇用労働分野の規制緩和を求める声が高まった。働くルールも、市場と自由な契約に委ねるべきだという主張だった。

政府機関として「規制緩和推進委員会」や「総合規制改革会議」などが設置され、労働関係の法改正の内容や審議日程を決定し、その指示が審議会におりてくる。

例えば1997年3月に閣議決定された「規制緩和推進再改定計画」には、雇用労働分野の項目として、裁量労働制のホワイトカラーへの拡大、労働契約期間の延長、変形労働時間制の要件緩和などが盛り込まれ、7月には中央労働基準審議会にその内容に沿った「労働基準法改正試案」が提示された。

これまで労働関係の法律は、公労使三者構成の審議会で議論し、その合意にもとづいて法制化するというシステムをないがしろにする暴挙であり、労働側委員は強く反発した。

しかし、規制緩和の圧力はますます強まり、1997年には企画業務型裁量労働制が導入され、1999年には対象業務をポジティブリスト化からネガティブリスト化(原則規制がない状態で、規制するものについてリスト化すること)するという派遣法改悪が行われた。

「攻め」の姿勢で新しいワークルールつくろう

連合は、こうした動きをどう受けとめたのか。
長谷川裕子元連合総合労働局長の証言を聞こう。

1990年代後半、グローバル化が進展する中で、経営者は、総額人件費抑制による国際競争力強化を最優先課題とし、経済的規制だけでなく労働基準の緩和も強く要求しはじめました。政府直轄の規制改革会議などから、労働時間の弾力化、有期雇用や派遣労働、解雇法制の緩和などが次々と示され、審議会にかけられる。連合は『労働基準緩和阻止』を掲げて抵抗するけれども、「結論ありき」の規制緩和を押し付けられ、審議会で負け続けるのです。
一方、職場では、現行の労働法制では保護されない「非正規雇用で働く労働者」がどんどん増えて、個別的な労使紛争が起きていた。

労働法制改悪反対5.29中央決起集会(2003年)

審議会委員として激しい攻防に臨んでいた松浦清春連合総合労働局長(当時)は、審議会で『負ける』と、頭を刈り上げて短髪角刈りにしていました。負け続けて本当に悔しかったのだと思う。そこで、連合は1999年に『新しい時代にふさわしいワークルールをつくろう』という方針を打ち出した。
「労働基準緩和阻止」を掲げるだけでは闘えない。「守り」の姿勢では、今職場で起きている問題を解決できない。労働組合の側から、「攻め」の姿勢で具体的なワークルールつくろうと。
笹森清連合事務局長(当時)は、松浦総合局長の考えを受けとめ、「これからはワークルールの時代だ」と総合労働局を強化し、労働法制局を新設しました。連合結成から10年、「顔合わせ・心合わせ」の時期から、いよいよ政策・制度実現で「力合わせ」し、勝負するという意気込みを感じました。
私は、1999年10月、このタイミングで新設の労働法制局の次長として着任したのです。雇用情勢は本当に危機的でした。それにどう具体的に歯止めをかけるのかという危機感の中で生まれたのが、連合ワークルール3法であったと思います。

問題を解決するルールもシステムもない

連合第7回定期大会(2001年)

連合が「新しい時代にふさわしいワークルール」として具体的に検討を進めたのは労働契約法、パート・有期契約労働法、労働者代表法の3つ。それぞれ研究者・弁護士、構成組織の担当者を交えた小委員会を設置し、密度の濃い専門的議論を経て、2001年10月の連合定期大会に法案要綱を提起しました。

なぜ、この3法だったのか。
長谷川元総合局長は、こう説明する。

バブル崩壊後、働く人たちは非常に厳しい状況におかれました。連合の労働相談にも解雇や雇い止め、退職勧奨、労働条件の切り下げなどの相談が急増しました。
ところが、それに対応したワークルールがない。労働基準法は行政法(労働監督署が取り締まるための根拠法)で、解雇については予告手当や妊産婦の解雇禁止の規定しかなく、一般解雇等についての規定はありませんでした。不当な解雇の撤廃や整理解雇の裁判では、民法や判例法理を使って裁判で闘うしかなかったのです。解雇や雇い止めについては、解雇権濫用法理(かいこけんらんようほうり:客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当性を欠く解雇は、解雇権の濫用として無効とする理論)や整理解雇の4要件(①人員整理の必要性、②解雇回避努力義務の履行、③被解雇者選定の合理性、④解雇手続の妥当性)、有期契約の雇い止め法理等、判例や裁判例をベースに、個別的な労働契約のルールを定めた法律、「労働契約法」が必要だと考えました。
また、当時、企業の総額人件費抑制策の下で、正社員をパートや契約社員、派遣社員に置き換える動きが進み、非正規雇用が急増していました。パートは、雇用の調節弁や家計補助的な働き方ではなく職場の戦力になりつつあったのに、賃金や待遇には大きな格差がありました。1993年にパート労働法が制定されましたが、均等待遇は事業主の努力義務でしかないので、均等待遇を法制化しないと、職場が劣化し、不安定化します。また、有期雇用については、短期契約を反復更新しながら長期に雇用するケースが広がっていました。非正規雇用で働く労働者の常用代替を防ぐには、有期雇用契約の位置づけを明確にし、雇い止めのルールや無期雇用への転換ルール等をつくる必要があるとの問題意識から「パート・有期契約労働法」を提起しました。
「労働者代表法」については、連合内でも、労働組合に代わる仕組みを法制化するのかと、議論がありました。しかし、労働組合組織率の低下が続く一方で、労働基準法や倒産法などにおいて、過半数組合もしくは過半数代表との協定締結や意見聴取、労使委員会の設置を義務づける規定が増加していました。労働組合がある職場は労働組合が職場の意見を反映するが、労働組合のない職場では民主的に労働者代表が選出されているという実態にはない。労働者が労働条件決定に関与するというルールを活かすためにも、労働者代表の選出や機能を明記したルール、「労働者代表法」をつくる必要があると考えました。

ワークルールをつくることは労働組合の大事な役割

労働基準法、労働者派遣法改悪反対の座り込み(2003年)

連合は、このワークルール3法に力を得て、審議会においても、守りの姿勢から攻めの姿勢へと転じていく。そして、解雇の金銭解決を求める「規制緩和」に対して、解雇権濫用法理などの判例のルール化を求め、2003年の労働基準法改正を経て、2007年には労働契約法の制定を実現していく。

長谷川元総合局長は、連合ワークルール3法の意義をこう語る。

連合が3つの法案要綱を策定したことは、画期的であったと思います。
それまでは厚生労働省から提案されたことに対して、連合の考え方を示すという事後対処方式。でも、ワークルール3法をつくったことで、労働側から労働に関する法案を積極的に提案していくというスタンスに変わったんです。
今、労働組合の役職員は、労働相談を受けたり、労働審判の審判員を務める人も多いでしょう。その時、労働契約法やパートタイム労働法は、働く人を守る上で頼りになる法律だと思う。それまでは法律がなかったのですから。労働審判も司法制度改革の「最大のヒット商品」と言われるくらい定着している。
私が連合に着任した1999年の頃は、労働契約法もパートタイム労働法も、労働審判制もなかった。いずれも、連合が原案をつくり、その必要性を粘り強く訴えて実現してきたものです。
連合が「つくる」ことに関わったルールやシステムが、定着し機能していることを本当にうれしく思います。ワークルールをつくることは、今も昔も労働組合、特にナショナルセンターの大事な役割。その歴史を若い世代にも知っておいてほしいと思います。

次回は、引き続き長谷川裕子元連合総合労働局長の証言を交えながら、連合ワークルール3法がどのように法制化に活かされたのか、労働契約法制や労働時間法制をめぐる攻防を中心にたどってみたい。

<次回に続く>

(執筆:落合けい)

◆証言
長谷川裕子 元連合総合労働局長
(はせがわ ゆうこ)
宮城県生まれ。1974年郵政省採用。全逓中央本部婦人部長、同中央執行委員を経て、1999年連合本部へ。労働法制局長、雇用法制対策局長、総合労働局長を務める。
2009年連合参与。中央労働委員会委員、労働保険審議会参与等を歴任。

◆参考文献・資料
濱口桂一郎(2018)『日本の労働法政策』労働政策研究・研修機構
中村圭介・連合総合生活開発研究所編(2005)『衰退か再生か—労働組合活性化への道』勁草書房
『日本労働研究雑誌』2008年特別号(雇用システムの変化と労働法の再編)労働政策研究・研修機構)
『日本労働研究雑誌』2008年10月号(労働政策を考える)労働政策研究・研修機構
『日本労働研究雑誌』2021年6月号(労働者を守る公的機関のいま)労働政策研究・研修機構『月刊連合』2002年3月号

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