ユニオンヒストリー

「若者の組合離れ」への危機感から始まった?!

2022年夏、連合は「若者とともに進める参加型運動」のキックオフを宣言したところだが、実は「若者へのアプローチ」は、労働組合にとって古くて新しいテーマ。試行錯誤が繰り返されてきた歴史の中から、今回は、1980年代後半から1990年代初めにかけて、「若者の組合離れ」に対応して取り組まれた「UI(ユニオン・アイデンティティ)」運動を中心に振り返ってみたい。

話題の「おじさんビジネス用語」

いつの時代も、「最近の若者は…」とため息まじりに言われてきた。
「若者」は、時の流れの中で入れ替わり、その価値観やライフスタイルも変化していくのに、オトナはいつも「若者」とのギャップに困惑してきた。

最近、SNSで話題の「おじさんビジネス用語」。「一丁目一番地、全員野球、鉛筆なめなめ、ガラガラポン、ポンチ絵、空中戦、ツーカー」などなど、これまで当たり前に使ってきた世代は、最近の若者の多くがその言葉の意味を理解していないと知って、心の底から驚く。そして、「アサイン、アライアンス、エスカレ、タスク」などのカタカナビジネス用語をインプットし、「エモい、イミフ、とりま、ぶっち」などの若者言葉のチェックも怠らない。

それでも、職場や家庭内で、「若者」と言葉が通じ合わない場面に遭遇してしまうという経験をしているのではないだろうか。

でも、これも、今に始まったことではない。あと20年もすれば、今の若者は中高年になり、「若者」の言葉に戸惑うことになるだろう。それでも、オトナ世代は、「最近の若者」が何を考え、何を求めているのかに無関心ではいられない。若者は、未来を担う次世代であり、「若者が参加しない労働運動に未来はない」からだ。

青年部の活動が原点

さて、労働組合において「青年活動」の活性化が課題になって久しいが、青年部が「血気盛ん」であった頃の話から始めよう。
労働組合のトップリーダーのインタビュー記事を読むと、きっかけは「青年部の活動だった」という方がとても多い。

連合の清水秀行事務局長は、「青年部活動が原点です。教員になったのは大量採用の時代で、初めて赴任した千葉県佐倉市の中学校は、55人の教職員のうち31人が30歳未満の青年部員でした。宿直室でしつこく組合加入を勧められ、入るならきちんと労働組合を理解しようと勉強しました」と。そして、青年部代表や青年部執行委員を経て支部役員になり、職場環境や労働条件の改善を実現していった経験が語られている(月刊連合2022年1・2月合併号)。同じく川本淳連合会長代行も「青年部の一員として活動をスタート。…青年部として、お茶汲みや係長以上の肘付イス、朝礼などの見直しを提案し、実現しました。さらに10市町村13単組青年部の会議体を結成した」と語っている。

■千葉県教職員組合の青年執行委員時代の清水連合事務局長(左前)(1988年)

労働組合の青年部は、どんな役割を担ってきたのだろう。

戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の民主化政策「5大改革指令」の1つとして労働組合の結成促進が指示され、1945年12月に労働組合法が成立。全国各地で組合結成の動きが広がり、1949年の組織率は推定55%を超えた。この時期、結成された組合は、様々な困難に直面したが、食料不足・物資不足で困窮する働く人たちの生活を守るために奔走し、戦後復興の大きな力になった。

高度成長期へと向かう1950年代半ば頃からは、「集団就職」などの形で、農村から都市部へと若い労働力が大量に送り出されるようになった。戦後生まれの、戦争を知らない「若者」たちだ。
「金の卵」と呼ばれた若い労働者を定着させるために、会社は教育(定時制高校、夜間大学への通学奨励)や余暇活動の支援に力を入れた。
労働組合もまた「青年部」や「婦人部」の活動を強化し、学習会や合宿、お祭り、パーティなどの多彩なイベントを企画した(ちなみに当時、女性は結婚退職慣行や若年定年制などがあり、「婦人部」に参加する女性労働者の大半は若年だった)。
労働組合のこれらの活動は、大量の新入組合員のお世話係という重要な役割を担っていたと同時に、様々なイベントや活動への参加を通して労働組合とは何かを学び、「仲間」としての連帯感を育む場ともなっていた。

この頃、青年部の活動は、その数の力を背景に活発化し、「血気盛んな青年部」が、時に中央の執行部と対立的になるといった構図もあったようだ。さらに1960年代末には、当時の学生運動と連動した「反戦青年委員会(ベトナム戦争反対・日韓条約批准阻止のための反戦青年委員会)」がラジカルな活動を展開する場面もあった。
しかし、まもなく時代は次の曲がり角を迎えることになる。

労働戦線統一の動きと「若者の組合離れ」

1970年代初め、日本は、ドルショックによる急激な円高や、オイルショックによる「狂乱物価」に見舞われる。労働組合においては「従来の賃上げ闘争を柱とする運動では、労働者の生活を守れない」という危機感が共有され、1976年、連合の原点となった「政策推進労組会議」が発足。
大々的なストライキ闘争は激減したが、統一的な政策・制度要求を通じて、働く者の賃金・労働条件の改善は大きく前進した。生活が豊かになる中で組合員のニーズも多様化したが、労働組合は労使で協力して、ニーズに対応した様々な福利厚生や労働時間短縮、育児等の両立支援や処遇制度の整備に取り組み、成果を積み重ねていった。

ところが、こうした運動スタイルの変化する中で「闘う労働組合」のイメージが低下し、「労働組合の存在感」が希薄化していくという事態に直面してしまう。
「集団就職」は役割を終え、かつて青年活動の中心だった「団塊の世代」は「青年」を卒業し、1980年代には高度成長期に生まれた「新人類」が労働市場へと参入。職場における青年活動は継承されていたが、主催する交流イベントへの参加者は減少しはじめ、「組合員の組合離れ」「若者の組合離れ」にどう対応するかが大きな課題になっていった。

UI(ユニオン・アイデンティティ)

■月刊連合1990年7月号

「若者の組合離れ」に対応し、時代にマッチした新しい運動をどうつくっていくか。その問題意識から、1989年代後半から90年代初めにかけて、取り組まれたのがUI(ユニオン・アイデンティティ)だ。

あの頃、組合旗やロゴのデザインが変わったと記憶している人も多いかもしれないが、世はまさにバブル。「豊かさ」の中で、組合員のニーズは多様化し、賃金や時短などの労働条件だけにとらわれていては組合員の期待に応えられないという問題意識が強くあったようだ。

当時、「組合離れ」の背景は次のように分析されていた。
第1に、大量生産・大量販売の時代から、少量多品種の時代を迎え、大衆社会から個人が重視される時代において、労働組合も、ハチマキをまいてみんなでデモ行進するという「大衆」運動では共感を得られない。
第2に、企業別組合が会社と利害を共有する場面が増え、対立的な要求は避ける姿勢が強まったことから、組合員には「ものわかりがよすぎる」と映り、求心力を失いつつある。

これを克服するために、UIとして主に4つのことが取り組まれた。
1つは、シンボルイメージの刷新。組合旗、組合用語、機関誌・紙などのデザインをわかりやすく親しみやすいものに変える。これは、その検討過程に若い組合員の意見を取り入れることで、組合活動への参加を促そうという狙いもあったようだ。
2つめは、運動領域や運動課題の見直し。賃金や労働条件の取り組みだけでは、多様化する組合員のニーズに応えられないという問題意識から、家庭や地域社会までフィールドを広げて、組合をサポートしていこうという動きが生まれた。
3つめは、経営参加・政策参加の推進。一企業内では解決できない課題が増える中、産別や連合との関係を深めていくと同時に、グローバル化が進み企業の社会的責任が問われる中で、労働組合として経営のチェック機能を果たしていくことが提起された。
4つめは、企業の組織構造や雇用形態が変化する中で、労働組合もそれに対応した組織化を進めようという動きが生まれた。

UIが急速に浸透した時期の若者は、まさに「バブル世代」。調査では「『労働者』や『労働組合』という言葉自体に抵抗感があり、『闘争』や『団結』、『連帯』『オルグ』などの言葉が時代遅れで嫌い」であることが示され、「春闘」という言葉を言い換えたり、集団でこぶしを振り上げる「団結ガンバロー!」をやめた組合も少なからずあった。

■若い組合員からの提案でテレビ番組のスタジオを借りてレクを開催した組合も。

UIが、どこまで新しい運動スタイルをつくり出し、「若者の組合離れ」に効果を上げたのかを検証することは困難だ。ただ、その取り組みを通じて、重要な気づきを得た組合は少なくない。

「問題は、活動内容自体ではなく、その活動内容がストレートに組合員に伝わっていなかったことだと気づき、広報の強化に取り組んだ」
「組合員の組合離れではなく、組合の組合員離れこそ問題だとわかった」
「あえてUIに取り組まなくても、若い人たちの意見や発想を受け入れていけば、UIそのものになってくる」。
「従来通りやっていれば間違いないという発想では、組合への期待感も信頼感も出てこない。専門委員会、大会・運動方針の改善、コミュニケーション活動の活性化に取り組んだことで、組合員の参加意識が高まった」

初職が非正規雇用のロスジェネ世代

UIの弱点は、日本経済が好調で、労働組合にも財政的余力のある時代の運動であったことかもしれない。
まもなく訪れたバブル崩壊とそれに続く長期不況は、若者の雇用を直撃した。1990年代後半から2000年代にかけて、企業は「新卒採用」を抑制し、契約社員や派遣社員などの「非正規雇用」に切り替えていった。正社員の減少に伴い、組合員は減少、特に若年組合員が大幅に減少し、青年部活動が困難になる組織も出てきた。対象の上限年齢を引き上げるなどして存続する努力が重ねられたが、財政悪化から青年部の廃止を余儀なくされた組織もあった。

2000年代半ばの若者は「超氷河期世代」「ロスジェネ世代」と呼ばれ、「初職」が非正規雇用というケースが3割を超える状況になっていた。
労働組合の「若者へのアプローチ」は、「STOP! THE 格差社会」を掲げた社会的な運動や、同じ職場にいる雇用形態の異なる労働者の処遇改善・組織化が課題として認識されるようになり、青年活動の活性化・建て直しへの取り組みも始まっていく。

そして今、Z世代と言われる「最近の若者」は、社会運動や労働組合の活動に「参加したい」と考えている(連合「多様な社会運動と労働組合に関する意識調査2021」「Z世代が考える社会を良くするための社会運動調査2022」)。

「若者と労働組合」の歴史から言えるのは、若者の価値観やライフスタイルは、時代によって常に変わり続けていくことだ。「若者とともに進める参加型運動」を進める鍵は、オトナ世代が自分の経験や思い込みを脱ぎ捨てて、目の前の若者に向き合い、対話することだと言えそうだ。

(執筆:落合けい)

《引用・参照文献》
「月刊連合」2022年10月号
「月刊連合」2022年1・2月合併号「月刊連合」1990年7月号
「月刊連合」1991年5月号
「成熟社会のなかの企業別組合—ユニオン・アイデンティティとユニオンリーダー』(稲上毅編、日本労働研究機構)
「若手組合員に労働組合をわかってもらう方法を考える」藤村博之(法政大学大学院教授)著(「労働調査」2007年7月号)

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