いまだ真相が明らかにされない自民党の派閥裏金問題。繰り返される「政治とカネ」の問題に対し、「30年前の『政治改革』の原点に立ち返れ」という声もあがっている。
30年前に何があったのか。1994年3月、小選挙区比例代表並立制、政治資金規正法改正、政党交付金の導入などを柱とする「政治改革関連4法」が成立している。
そして、その激動の政界再編を伴う政治改革の推進力となったのは、経済界、労働界、言論界をつないで国民運動を展開した「民間政治臨調」(政治改革推進協議会)であったという。平成デモクラシーとも言われる「政治改革」は何をめざしたのか。労働組合はそこにどう関わったのか。民間政治臨調、21世紀臨調(新しい日本をつくる国民会議)の事務局長として合意形成に奔走した前田和敬日本生産性本部理事長の証言を交えて、その歴史をたどってみよう。
前田 和敬(まえだ かずたか) 日本生産性本部理事長
1982年日本生産性本部入職(社会経済国民会議に出向)。政治改革推進協議会(民間政治臨調)、新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)で事務局長を務める。
2012年日本アカデメイア事務局長、2021年日本アカデメイア運営幹事日本生産性本部執行役員、理事、常務理事を経て2017年6月から現職。2022年「令和国民会議(令和臨調)」を立ち上げる。
公益財団法人 日本生産性本部
1955年、日本の生産性運動の中核組織として設立された民間団体。経済界、労働界、学識者の三者構成により、「生産性運動三原則」(①雇用の維持・拡大、②労使の協力と協議、③成果の公正な分配)を柱に生産性運動を推進し、生産性向上に資する調査・研究・政策提言や研修・セミナーによる人材育成、コンサルティングなどを通じて、生活の質の向上や社会経済システムの課題解決にあたっている。芳野友子連合会長をはじめ労働組合のリーダーも多数理事や評議員として参画している。
政治が変わらないと日本は変わらない
危機感の共有から生まれた「民間政治臨調」
(①母体となった社会経済国民会議より続く)
連合が結成された1989年は激動の政治改革元年
「政治問題特別委員会」が最終提言をまとめた翌年の1989年10月、社会経済国民会議は、新たに「政治改革フォーラム」(政治改革に関する政党と民間各界の連絡会議)を発足させる。
前後の出来事をたどってみよう。
1988年6月、リクルート事件が発覚し、政官財界を巻き込む大疑獄に発展。国民の政治不信が噴出するなか、1989年元日、竹下登首相は年頭記者会見で「政治改革元年」とする決意を表明。
1月7日、昭和天皇が崩御され、元号が「平成」に変わってまもなく、竹下首相は自民党内に「政治改革委員会」(後藤田正晴会長)を設置するとともに、私的諮問機関「政治改革に関する有識者会議」を設置。4月には有識者会議の提言が出され、5月には自民党が「政治改革大綱」を党議決定。大綱には「政治とカネの問題が繰り返される背景には、同じ政党の候補者が複数立候補する中選挙区制の問題がある」として、小選挙区制導入などの改革案が盛り込まれた。リクルート事件を受けて支持率が軒並み10%を割り込んだ竹下内閣は、政治改革への道筋をつけたとして6月に総辞職し、宇野宗佑内閣が発足。自民党内に「政治改革推進本部」(伊東正義本部長)が設置され、第8次選挙制度審議会でも制度見直しの検討がスタートしたが、宇野首相のスキャンダルが発覚。同年4月に導入された消費税の影響もあって7月の参院選で自民党は惨敗し、8月に海部俊樹内閣が発足。ちなみに民間連合はこの参院選に「連合の会」として12人の候補を擁立し、11人の当選を勝ち取った。
こうしたなか、社会経済国民会議は10月、オープンな政治改革の議論の場をつくろうと、民間各界有志、自民党政治改革推進本部、社会、公明、民社、共産、社民連の政策責任者による「政治改革フォーラム~ 政治改革に関する政党と民間各界の連絡会議」を結成した。背景には何があったのか。
今振り返ると、『政治改革』の大きな歴史的転換点になったのは、昭和が終わり平成が始まった年でもある1989年でした。国内の「55年体制」を規定していた戦後の東西冷戦体制が「ベルリンの壁」の崩壊で終焉した年に、連合は結成され、わたしたち社会経済国民会議は「政治改革フォーラム」を発足させました。
前年の1988年春にはリクルート事件があり、政財界を巻き込んだ「政治とカネ」をめぐるスキャンダルで国民の政治不信は頂点に達していました。竹下内閣は3パーセントの消費税の導入をめざしていましたが、内閣支持率は新聞社によっては3パーセント程度まで急落するという深刻な事態でした。
「税」と「政治とカネ」をめぐるスキャンダルのセットは今の事態に通じるものがありますが、国民の怒りは収まりそうにありませんでした。政治の底が抜けかかっていました。政党、政治家のあり方が各方面から問われ始めました。改革を求める自民党の若手議員も声をあげ始めました。党内では改革をめぐる激しい議論も始まりました。
竹下首相はそうした声を踏まえ、1988年12月に総裁直属機関として政治改革委員会を設置し、後藤田正晴さんを委員長に政治の仕組みにまで踏み込んだ抜本的な政治改革案のとりまとめを指示しました。自民では党を二分する議論が始まりました。何日も徹夜覚悟の喧々諤々の議論が続きました。私はその現場を見ていましたが、それはすさまじいものでした。自民党が同年6月23日にまとめた「政治改革大綱」は、こうした議論の末に党議決定されたものでした。
「大綱」は、政治倫理、政治資金、選挙制度、国会改革、党改革、地方分権の6分野にわたって包括的な改革を幅広く提起していました。なかでも、中選挙区制の見直しはすべての改革と分かちがたい関係にあるとして小選挙区制を基本とし比例を加味する制度の導入を明記。今日の政治が抱える病理の根本原因を正すために中選挙区制度改革が不可避である理由として、「政権交代可能な政治の必要性」にまで言及していました。万年政権与党であり続けた自民党が日本の民主主義のためには「政権交代可能な政治」が必要であるという認識を、党議決定した政党の正式文章の中で宣言したのです。
これは、まさに前代未聞のことでした。自民党内の政治改革推進派の危機感と覚悟、日本の民主主義への責任感を感じました。そしてこの「政治改革大綱」の思想と改革の内容には、多くの部分で社会経済国民会議が提言してきた問題意識が共有されていました。自民党は「政治改革大綱」を作成する際、中心メンバーの一人だった自民党の保岡興治さんたちが、社会経済国民会議の政治改革提言を勉強するところから始めていたのです。私たちの提言の多くの言葉が「大綱」と重なりました。
同年10月9日に正式結成された「政治改革フォーラム」の直接のきっかけは、「政治改革大綱」を実現するために党内に組織された自民党政治改革推進本部の伊東正義本部長、後藤田正晴本部長代理からの依頼でした。1989年8月、社会経済国民会議の稲葉秀三議長、亀井正夫同政治問題特別委員長、前田の三人は自民党本部の会議室に招かれ、伊東正義さん、後藤田正晴さん、保岡興治さんと懇談し、こう相談されました。「政治改革は自民党だけでは絶対に実現できません。国民の皆さんの支持やご理解を得られることもできません。公開の場で与党と野党をつなぎ、あるいは各政党と国民各界や報道各社など異なる立場の人々とを結びつけ、対話と合意形成を進めるための国民サイドの組織が必要です。その役割を、社会経済国民会議にお願いしたい。各党、各界の合意形成の要になってほしいのです」と協力を求められたんです。発足した「政治改革フォーラム」には、労働界からも、竪山利文さん、黒川武さん、宇佐美忠信さん、得本輝人さん、藁科満治さん、山岸章さん、藤原巌さん、片山閑さん、新沼行さん、柴田守さん、高野俊栄さんなど多くの皆さんが参加されました。
同年11月にはベルリンの壁が崩壊して東西冷戦構造が大きく揺らぐなか、官民統一の連合結成大会が開催された。
民間連合は官民統一前夜の1989年10月に「『政治改革』についての連合の態度(その1)」を確認。「政治改革の第一歩は、リクルート疑惑の徹底解明が前提であるが、その経緯と内容からして、それは政官財の拝金病理とも云うべき構造腐敗の本質であり、たんに倫理問題だけでなく、対応する政治制度そのものが制度疲労しており、現行制度での政治浄化・政治改革は期待できない」との見解を示し、政治資金の透明化、選挙制度、国会運営を柱に政治改革に継続的に取り組むとした。
前田理事長は「政治方針をめぐる連合の熱い議論の現場も目撃しました」と語る。
悲願の労働戦線統一として連合が結成された時の感激は、今も忘れられません。
何度も壁にぶつかりながら、粘り強く統一を前に進めたリーダーたちの姿を間近で見てきましたから。
「政治改革」についても労働組合のリーダーは本当に真剣でした。国際情勢が大きく変化しているのに、日本の政治はそれに対応できていないという強い危機感を持ち、それゆえ協力関係にある野党にも党改革を迫っていました。今では考えられないくらい深く激しい議論をして、連合の政治方針を一つひとつ練り上げていったんです。
「民間の力が必要です。私たちを支えてください」
1990年に入ると、「政治改革フォーラム」は精力的に議論の場を設定し、全国で地方版も開催。政治改革の気運が高まっていく一方で、各政党では「改革」に後ろ向きな動きも活発化していった。
1991年1月には湾岸戦争が勃発し、自衛隊が初の海外派遣へ。国際情勢が緊迫するなか、自民党総務会は政治改革関連法案の党議決定持ち越しを決めるが、党内が紛糾。8月の臨時国会には条件を付した政治改革関連3法案が提出された。
これを受けて、社会経済国民会議では「政治改革推進に関する各界署名運動」を開始し、9月27日、個人3508名、団体58組織、国会議員203名の名簿を海部首相に提出(労働界も署名運動に協力。発起人には竪山利文、山岸章、宮田義二が名を連ねた)。
同日、自民党若手議員有志107名が「待ったなし!政治改革推進大会」開催した。
ところが、9月30日、政治改革関連3法案は審議未了・廃案となり、10月4日、海部首相は退陣を表明、自民党政治改革推進本部の伊東正義本部長、後藤田正晴本部長代理が本部職を辞任した。
10月5日、政治改革フォーラムにも参加し、政治改革を党内で推進してきた自民党の若手議員有志が社会経済国民会議の稲葉議長や亀井さんのところにやってきて、「もう自民党のなかだけでは改革はできません。民間の力、国民の力が必要です。私たち若手を支えてください」と国民的組織の結成を直訴したんです。
11月に宮澤喜一内閣が発足し、与野党が「政治改革協議会」を設置することで合意しましたが、協議は不調に終わり、12月18日、政府はまたもや政治改革関連法案棚上げを正式決定します。
実は、自民党だけでなく野党の若手議員も同じような思いを抱えていました。野党議員は野党議員で政治改革法案が廃案になる中で党のあり方に悩んでいました。政権も狙わず、反対ばかりして、このままでいいのか、と。「政治改革フォーラム」等を通じて、自民党の若手議員と野党の若手議員の交流や問題意識の共有が芽生え始めていました。私はその現場に立ち合い続けてきました。
稲葉さんと亀井さんは立ち上がりました。「最後のご奉公として若手を後押しするか」と。だから、「政治改革」を中心に据えて、志ある政治家を与野党の垣根を越えて支えようと、経済界・労働界・学者、マスコミに呼びかけた。
山岸章連合会長、得本輝人自動車総連会長、鷲尾悦也鉄鋼労連委員長たちもそれに応えてくれた。それで急遽、12月20日に政治改革推進協議会(民間政治臨調)発足準備総会を開催したんです。
さて、こうして誕生することになった民間政治臨調は、どんな理念を共有し、どう改革を進めていったのか。
自民・社会・公明・民社の1年生議員が「比較政治制度研究会」(CP研)を立ち上げ、私はその事務局を担いました。(1991.11.4)
<「③行動する民間政治臨調へ続く」>
(執筆・落合けい)
《参考文献・WEBサイト》
◇佐々木毅編(1999)『政治改革1800日の真実』講談社
◇新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)編(2002)『日本人のもうひとつの選択—生活者起点(生きかた、暮らしかた、働きかた)の構造改革』東信堂
◇新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)編(2002)『政治の構造改革—政治主導確立大綱』東信堂
◇佐々木毅、21世紀臨調編著(2013)『平成デモクラシー—政治改革25年の歴史』講談社
◇21世紀臨調オフィシャルホームページ http://www.secj.jp/index.html