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ユニオンヒストリー

[民間政治臨調編]①-2 労組が結集した11.10国民集会

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1992年4月20日に正式発足した「民間政治臨調」は、何を提起し、どう行動したのか。結成まもない連合は、そこでどんな役割を果たしたのか。前田和敬日本生産性本部理事長の証言を交えて話を続けよう。

前田 和敬(まえだ かずたか) 日本生産性本部理事長
1982年日本生産性本部入職(社会経済国民会議に出向)。政治改革推進協議会(民間政治臨調)、新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)で事務局長を務める。
2012年日本アカデメイア事務局長、2021年日本アカデメイア運営幹事。
日本生産性本部執行役員、理事、常務理事を経て2017年6月から現職。2022年「令和国民会議(令和臨調)」を立ち上げる。

公益財団法人 日本生産性本部
1955年、日本の生産性運動の中核組織として設立された民間団体。経済界、労働界、学識者の三者構成により、「生産性運動三原則」(①雇用の維持・拡大、②労使の協力と協議、③成果の公正な分配)を柱に生産性運動を推進し、生産性向上に資する調査・研究・政策提言や研修・セミナーによる人材育成、コンサルティングなどを通じて、生活の質の向上や社会経済システムの課題解決にあたっている。芳野友子連合会長をはじめ労働組合のリーダーも多数理事や評議員として参画している。

(①-1 三者構成の組織編成から続く)

連合の決断と行動が議論を牽引した

流れを変えた「中選挙区制廃止」宣言

組織図をみると、幹事会の会長代理に得本輝人自動車総連会長、第1検討委員会の委員長に後に連合会長となる鷲尾悦也鉄鋼労連委員長をはじめ、労働界から多数が参加している。民間政治臨調と連合はどういう関係にあったのか。

連合の発足はベルリンの壁が崩壊し冷戦体制が崩壊した1989年のことです。まさにこの年に前年のリクルート事件を受けて、政界を二分する政治改革論議が始まりました。今振り返れば、これは運命的であったと思います。連合は政党政治家を二分する政治改革論議の中で産声を上げたのです。私たちの活動は政治改革フォーラムやそれ以前の時代から労働界の参加を得て進めてきました。海部内閣の政治改革関連法案廃案を受けて立ち上がった民間政治臨調は、こうした流れを引き継ぎ、発足当初から連合と公式、非公式な交流を繰り返しながら組織を立ち上げ、改革論議を進めました。むしろ、連合内での政治改革論議の深まりや決断と行動こそが、民間政治臨調の議論や運動を牽引してきたと言っても決して言い過ぎではありません。

他方で、民間政治臨調における議論や活動の深まりが、連合の政治方針や政治改革方針にも影響を与え合うという好循環の関係でもありました。

民間政治臨調の組織を立ち上げるとき、当時初代連合会長の山岸章さんの下で政治担当の副事務局長をされていた坂本哲之助さんや政治局長の富田さん、長石さんなど事務局の皆さんに大変お世話になりました。坂本さんは労働界のことを私に教えてくれた人生の恩人で、大好きな方でした。大学時代応援団長だった坂本さんは、「労働組合というのは働く仲間の応援団」が口癖でした。民間政治臨調の労働界人事も坂本さんに相談してから原案を固めました。坂本さんは「前ちゃん、前ちゃん」と言いながら、連合の政治方針や野党の党内事情、そして酒席での立ち居振る舞いなどを教えて下さり、山岸さんにも「前ちゃんは、私の友人ですから」と言ってつないでくださいました。坂本さんとは、連合が「政治フォーラム」や「組織内議員」組織を立ち上げるときも企画段階から連携する関係にありました。

初代連合会長の山岸章さんは、民間政治臨調の発足総会で「連合は政治改革を断行する議員を支持する」と発言し、多くの若手議員を勇気づけました。山岸さんはとにかくカッコよかった。得本輝人さんは、民間政治臨調の会長代理として労働界を代表して臨調の議論をまとめる立場にありました。薩摩隼人の得本さんは西郷さんのような重く野太い低音ボイスで、政治改革の情熱を言葉少なにいつも語り掛けてくださいました。当時、浜松町の自動車総連に何度足を運んだかわかりません。得本さんは民間政治臨調の会長代理と連合の政治委員長を務めていたので、この意味でも、連合の政治改革や政党に対する方針と民間政治臨調の議論の方向性や改革運動はお互いにリンクしながら共に深められていく関係にありました。1993年にまとめた「連合の政治方針」は、民間政治臨調の政治改革論議と超党派の政治改革運動を次のステップへと向かわせる跳躍台となりました。

第1委員会の委員長を務めた鷲尾さんは、明るく太陽のような人柄で、まさに改革のムードメーカーとして民間政治臨調の活動をリードされました。とくに政治改革を国民運動にするためのさまざまアイデアを提案されました。例えば、「亀井さん、政治臨調で、『政治改革、私のリクエスト』を国民から募りませんか。国民のFAXで集会会場をいっぱいにしましょう」と提案、先頭に立って声を掛けてくださったのを覚えています。

いま振り返ると、連合と政党との関係あるいは連合と政治改革の関係において歴史的な分岐点となったのは、平成2(1990)年の総選挙だったと思います。連合結成当初から、当時山岸さんたちは社民結集の実現にむけて模索を繰り返し、苦労を重ねていました。しかし、平成2(1990)年総選挙で社会党は多くの若手議員が誕生し議席を伸ばしました。仙谷由人さんたち新世代の登場でした。彼ら彼女ら当選1年組は「ニューウェーブの会」を結成し活発な発言を始まるなど注目を集めるようになりました。他方、民社党は議席を減らす結果となりました。この両党の議席の関係もあって、長年積み木細工のように積み上げてきた社民結集路線はすぐには実現する見通しが立たなくなり、事実上断念せざるをえなかったのだと記憶しています。

社民結集路線の行き詰まりの中で、政界は政治改革をめぐり流動化の兆しが見え始めていました。民間政治臨調の結成がその流れを生み出し、また加速させました。連合や傘下の労働界リーダーは民間政治臨調の活動に参画する中で、自民党の政治改革推進派の若手議員との交流を深め、お互いを知るようになりました。政党再編や政権交代勢力の結集軸として「政治改革」という旗印が生まれました。「政策本位」という言葉が各産別のリーダーを中心に意識的に、政治的な含意をもって使われ始めたのもこの頃のことでした。

政策本位とは、たとえ支持政党ではない自民党議員であっても、政治改革に賛同し行動する議員ならば、政策本位に判断して非公式ながらも支援も視野に入れるという労働界側から自民党議員サイドに対するメッセージでした。そして、社会党の中で始まっていた政治改革をめぐる新旧世代対立や党内路線対立に対しては、政治改革や政権交代可能な勢力の結集に舵を切る議員を応援するというメッセージも込められていました。

大きな激動の始まりとなったのは、1992年10月2日、民間政治臨調が日比谷の野外音楽堂(以下「日比谷野音」)で開催した「政治改革を求める国民集会」でした。その集会で与野党の超党派議員80名が壇上に上がり、与野党188名の国会議員が署名した「中選挙区廃止宣言」を公表したのです。

「政治改革を求める国民集会」(日比谷野外音楽堂にて/1992.11.10)
中選挙区制廃止宣言を唱和する羽田孜衆議院議員

歴史的な出来事でした。それが可能となったのは、同じ10月に正式決定された連合の「中選挙区制廃止」方針でした。これなしには成しえない出来事でした。とくに連合の方針決定は野党の若手議員を後押しし、彼らに執行部の慎重姿勢を乗り越え、日比谷野音の壇上に登壇する勇気を与えました。当時中選挙区制度の改革問題は、連合内でも支持政党の存続に関わる問題なので、議論は非常に難航していました。連合のこの時期の方式決定はまさに英断であり、与野党の多くの若手議員を勇気づけました。そして、政治改革と政党流動化の流れを一気に加速させる結果となりました。

連合は民間政治臨調主催の日比谷野音の国民集会に連合傘下の組合員の皆さんに呼びかけ、3000人の大動員をしてくださいました。副事務局長の坂本哲之助さんとの「友情」でした。学生時代ロック少年だった私にとっては憧れの殿堂「日比谷野音」で国民集会をやってみたいと思い、走り出してはみたものの、経験したこともないので、すべては手探りでした。そこで連合事務局の長石さんに相談し、看板やのぼり等は連合がいつもお願いしている業者を紹介いただき、また警備の仕方や所轄警察署等との警備に関する打ち合わせの仕方も教えていただき、立ち会ってもいただきました。その経験とノウハウは今の令和臨調にも脈々と引き継がれています。私の国民集会や大集会のノウハウは、すべてその当時の連合の皆さんに教えていただいたものです。

当日は、日比谷野音の会場のあちらこちらで組合旗が立ち並びました。また、「政治改革を実現させよう」「政治改革推進議員を応援しよう」というのぼり旗が会場の各所を埋め尽くしました。会場に入り口には、鷲尾さんの提案で募集した「政治改革、わたしのリクエスト」のたくさんのFAX用紙が張り出され、組合員に皆さんはそれを食い入るように読み、テレビはそれを中継し続けました。

民間政治臨調の旗

集会は、亀井正夫会長の開会挨拶で始まりました。壇上は、与野党議員80名と民間政治臨調参加の経済界、労働界、学識者の有志で埋め尽されました。初めに主催者を代表して亀井会長が挨拶、そのあと、日経連元会長で第三次行革審会長の鈴木永二さん、山岸連合会長が挨拶に立ちました。この時の山岸会長の演説は歴史に残るものでした。いまでもその姿、身振り、手振り、口から発せられた一言一言を鮮明に覚えています。演題に立ち、会場を埋め尽くす組合員をギョロリと見渡しながら、勇気をもって集会に駆け付け、壇上に上がった与野党議員にエールを送り、「連合は、政治改革を真剣に取り組む議員を支持する。政治を国民の手に取り戻す」と会場を埋め尽くす参加者の皆さんに呼びかけたんです。多くの組合員の皆さんの熱気が会場に溢れました。あの光景は今も目に焼き付いています。

主催者挨拶する亀井正夫民間政治臨調会長
山岸章連合会長
鷲尾悦也民間政治臨調第1委員長

最後に、国民集会の締めくくりとして民間政治臨調会長代理の得本輝人さんが演壇に立ち、大会アピールを読み上げました。得本さんは読み上げる前に、会場を埋め尽くす参加者に対し、「皆さん、今からアピールを読み上げます。皆さんは、大きな声で、そうだ!と応えてください」と言い、あの野太く低い声で大会アピールをゆっくり読み上げました。

「われわれは、政治改革の後退を断じて許さない。われわれは、世代を超え、立場を超え、党派を超え、改革に立ち向かおうとするすべての同志に呼びかける」。大会アピールの決議項目を読み上げるたびに会場内から「そうだ!」の力強い大合唱が沸き起こりました。

国民集会アピールを朗読する得本輝人民間政治臨調会長代理
アピール採択風景

政治改革の歴史が大きく動いた瞬間でした。マスコミは新聞、テレビで一斉に報道し、政界に大きな波紋を投げかけました。私は、この時の連合の覚悟と決断こそが、野党の慎重派の背中を押し、自民党の若手議員を勇気づけ、日本の政治改革を前に進める最大の力になったと思っています。

事実、その後に続く政治改革をめぐる歴史的なドラマを回想するならば、例えば、連合のこの決定が翌年の社会党・公明党合同提案の併用型小選挙区比例代表制法案の国会提出を可能にし、さらにこのことが、緊迫する政治改革関連法案審議の中で、与野党のさらなる歩み寄りを促す民間政治臨調の小選挙区比例代表連用制(いわゆる「連用制」)の提出を可能にしたのでした。

そして民間政治臨調の「連用制」提言が公表されると同時に、連合や野党の各党会派、与党自民党の政治改革を支持する各グループからも、連用制を与野党の調停案として支持する表明が相次ぎ、ついに野党は院内で6党会派の党首会談を開催し、民間政治臨調提言の「連用制」案を軸に妥協案を作成することで合意。党首間で合意文章を取り交わし、単純小選挙区制に固執していた自民党にさらなる歩み寄りを迫ることになります。そして、通常国会終盤における政治改革法案をめぐる与野党ぎりぎりの攻防と党内での改革をめぐる激しい対立の結果、宮沢内閣の不信任案は可決され、政権交代へとつながることになるのでした。そして、細川政権のもとで幾多の紆余曲折を経て政治改革関連法案が成立することになるのです。この意味で、こうした一連のドラマの始まりとなった11.10国民集会はまさに歴史的な集会でした。

「(①-3 政治改革関連法案の成立へつづく)」

(執筆・落合けい)

《参考文献・WEBサイト》
◇佐々木毅編(1999)『政治改革1800日の真実』講談社
◇新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)編(2002)『日本人のもうひとつの選択—生活者起点(生きかた、暮らしかた、働きかた)の構造改革』東信堂
◇新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)編(2002)『政治の構造改革—政治主導確立大綱』東信堂
◇佐々木毅、21世紀臨調編著(2013)『平成デモクラシー—政治改革25年の歴史』講談社
◇21世紀臨調オフィシャルホームページ  http://www.secj.jp/index.html

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