1992年4月20日に正式発足した「民間政治臨調」は、何を提起し、どう行動したのか。政治改革関連法案の成立にどういう役割を果たしたのか。前田和敬日本生産性本部理事長の証言を交えて話を続けよう。
前田 和敬(まえだ かずたか) 日本生産性本部理事長
1982年日本生産性本部入職(社会経済国民会議に出向)。政治改革推進協議会(民間政治臨調)、新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)で事務局長を務める。
2012年日本アカデメイア事務局長、2021年日本アカデメイア運営幹事。日本生産性本部執行役員、理事、常務理事を経て2017年6月から現職。2022年「令和国民会議(令和臨調)」を立ち上げる。
公益財団法人 日本生産性本部
1955年、日本の生産性運動の中核組織として設立された民間団体。経済界、労働界、学識者の三者構成により、「生産性運動三原則」(①雇用の維持・拡大、②労使の協力と協議、③成果の公正な分配)を柱に生産性運動を推進し、生産性向上に資する調査・研究・政策提言や研修・セミナーによる人材育成、コンサルティングなどを通じて、生活の質の向上や社会経済システムの課題解決にあたっている。芳野友子連合会長をはじめ労働組合のリーダーも多数理事や評議員として参画している。
政党間の健全な競争なき政治は必ず劣化する
選挙制度を変えて政権交代可能な政治体制を
月刊連合1993年新年号では、亀井正夫民間政治臨調会長と山岸章連合会長による新春ビッグ対談が組まれている。タイトルは「今年中に政治改革のめどをつけたい。そうすれば日本の未来はまた開ける」。
対談の中で、山岸会長は「11月10日の民間政治臨調国民集会は画期的だった」と評価し、選挙制度は「小選挙区比例代表制併用型とする」との考えを示している。
亀井会長は、激動する国際情勢に対応するためにも「日本の政治の体質を変えないといけない。これが私の政治改革運動をやる一番の根本的な動機」と語り、「1925年に導入された中選挙区制は制度疲労を来している。また、保守合同と社会党統一以来、一度も政権交代がない。これでは権力が腐敗する」と訴えている。
選挙制度改革については小選挙区制と比例代表制の組み合わせが1つの方向性として固まっていくが、その合意の意味を前田理事長はこう説明する。
そもそも選挙制度には、これがベストというようなものはありません。それぞれに一長一短がある。その国がどのような課題を抱えていて、国民がどのような政治をめざしているのか、どのような政治システムを選択したいのかによって選挙制度の選び方は変わります。同じ国であっても、時代の変化や国民意識によっても変わります。制度に絶対というものはないからです。
大切なことは、選挙とその国の政党、国会、そして政府の創出と運営のなされ方というのはセットであり、どのような選挙制度を選ぶのかという課題は、どのような政治システムを選ぶのか、さらにはどのような「民主主義の形」を求めるのかという問題を考えることを意味します。こうした事情は、今も昔も変わりません。
日本で中選挙区制と慣用的に言われてきたものは、戦前当時与党だった護憲三派の政党同士のすみ分けという政治的な妥協の産物で出来上がったと俗説的には言われている日本独特の制度で、世界に類例はほとんどありません。(中選挙区制は3~5名の複数定員区で有権者は1票を投じる制度。正式には大選挙区・相対多数決・単記・非移譲式投票制度で、制限連記制の極限形態とも言えます。)世界の議院内閣制諸国は、きわめておおざっぱに言って、小選挙区制か、比例代表制か、あるいはその組み合わせかの3つの流れの中にあります。
小選挙区制は「民意の集約」と言われましたが、要するに、国民が総選挙段階で政権をより直接的に選択する機能を強くし、総選挙を名実ともに政権選択の場とすることをより重視する制度。衆議院の役割とは「国民の意思による責任ある政権の創出」であるという思想が根本にあります。
他方、比例代表制は「民意の縮図を鏡のように反映」と言われましたが、要するに民意の多様性を尊重し民意に沿った政党の多党化を国会の場で再現することをより保証する制度。その代わり、政権の創出は選挙後の政党間の合従連衡の行方に委ねられます。小選挙区制と比例代表制の組み合わせとその方法は、そのどちらの機能をより重視するかによって様々な制度が存在します。
その当時の中選挙区制度が抱えていた構造的な諸問題についてはすでに述べた通りです。同じ自民党候補者同士による骨肉の「同士討ち」競争がもたらす政党や政党の政策の形骸化、熾烈な金権選挙、深刻な政治腐敗、利益誘導政治の横行、「派閥あって党なし」と言われた自民党派閥政治の発達と定着、与野党固定化による実質的な政権選択なき政治の定着。要するに、中選挙区制度は戦後の高度成長時代のある時期までは日本の実情に照らし、それなりの合理性を維持してきたのだと思いますが、もはや「制度疲労」の極限に達していたということです。この制度疲労という言葉を当時多くの政治家や産業界労使のリーダーが口にしていたのを記憶しています。
ある意味で、中選挙区制度は与野党ともに居心地が良かったのだと思います。政権交代がない前提で、野党も一定の議席は確保できる。自民党は万年与党として君臨し続ける。マスコミやワイドショーは自民党内の派閥争いを、まるで「戦国絵物語」のように喧伝し、国民はそれをあたかも「観客」のように眺める。床屋談義にも大いに花が咲きましたが、しかしそれはどれだけ熾烈であっても所詮、自民党内の派閥争いであって、国民に選べる権利があるわけでない。その様子は「観客民主主義」と言われたりもしました。
中選挙区制時代は自民党内の派閥争いが事実上の政権交代の主戦場(疑似政権交代とも言われました。)で、国民による政権選択なき政治の固定化が続いた時代でした。中選挙区制度の廃止は、そうした諸々の制度疲労からの脱却をめざしたものでした。東西冷戦構造を背景とする国内の「55年体制」を終わらせるためにも、選挙制度を変えて、内向きの日本政治の体質を変え、国民が政権を選択するリアリティを持つことができるような政治体制や政党間の政策競争を可能にする新しい政治をつくるべきだという合意が広がったんです。
「月刊連合」の新春ビッグ対談で、亀井正夫さんは中選挙区制の制度疲労を指摘し、政権交代が可能な政治の必要性を主張していますが、これは、亀井さんと私が最初に出会ったときからの変わらぬ亀井さんの持論です。「責任ある政治を行う秘訣は、いつでも政権交代可能な野党が存在することだ」「権力は必ず腐敗する」「政党間の健全な競争なき政治は必ず劣化する」「政権交代可能な野党があるからこそ、与党にも緊張感が生まれ、改革が進む」「そのためには与党も野党も変らねばならない」。その当時、亀井さんと山岸さんは大いに意気投合していました。
では、それに代わる制度をどう構想するか。現実的には、小選挙区制と比例代表制の組み合わせ方式が与野党間で模索されました。政権交代可能な政党政治をつくり、国民が選挙で政権をより直接的に選択できる観点から小選挙区制を採用し、併せて比例代表制を組み合わせることで多様な民意の反映も保証する。山岸さんのインタビュー中の「併用制」発言は、その年の通常国会に社会党と公明党が併用制案を共同提出することを事実上後押しするものでした。
併用制はドイツの制度がそうですが、基本的な各党の議席配分の面では比例代表制であり、多様性や多党化をより重視する制度でした。しかし実質的な比例代表制である併用制のままで自民党が合意する可能性はありませんでした。対する自民党が提出してきたのは単純小選挙区制。これでは中小政党の存在は難しくなり、当時の野党がとても飲める案ではありませんでした。それを見越して提出してきたという観測すらありました。それは半ば事実であったと思います。
実は、かつて海部内閣が提出し廃案となった制度は「並立制」でした。この制度は小選挙区制を基本に据えながら、比例を組み合わせることで多様性や小政党の議席の確保を保証する制度でしたが、この「海部案」でさえ当時の野党が合意するにはきわめてハードルの高い提案でした。しかし、自民党と社会党がまがりなりにも中選挙区制度に代わる新制度案を揃って国会に提出したことで、政治改革法案をめぐる議論の舞台は国会に移り、宮澤政権末期に新たな局面を迎えることになったのです。
民間政治臨調の提言を軸に妥協案を作成
政治改革関連法案の成立までには、さらに幾多の挫折と紆余曲折を経ることになる。
1993年4月、自民党は定数500の単純小選挙区制を柱とする政治改革関連4法案を国会に提出。これに対し、社会・公明両党は小選挙区比例代表併用制 (小選挙区200、比例300、12ブロック、2票制)を柱とする政治改革関連法案を共同提出。
国会の場で初めて本格的に審議されることになったが、与野党の隔たりは大きく、難航が予想された。
そこで、合意形成に動いたのが民間政治臨調だ。
4月17日、「政治改革に関し第126回国会において実現すべき事項に関する提言」(小選挙区比例代表連用制、政治浄化特別措置法、政党交付金制度の導入)を発表。
これを受けて、社会・公明・民社・社民連・民主改革連合・日本新党の6党・会派が党首会談を行い、民間政治臨調の提言を軸に妥協案を作成することで合意した。
しかし、それでも国会審議は難航し、6月15日、自民党は与野党合意の調整作業を打ち切り、16日宮澤首相が成立断念を表明。これを受けて翌17日、社会、公明、民社の3党は「野党が積極的に歩み寄ったにもかかわらず、合意に至らなかったのは自民党がその意思を放棄した結果である」として内閣不信任案を提出。これは、自民党羽田派などの欠席で可決され、衆院解散・総選挙へ。自民党は過半数を割り込み、日本新党の細川護煕党首を首班とする非自民8党会派連立政権が成立した。
細川首相は、所信表明演説で「政治改革断行を内閣の最初の、そして最優先の課題と位置づける」と述べ、9月17日、政治改革関連4法案を国会に提出するが、野党自民党も並立制を柱とする法案を議員立法として提出。
前田理事長は、「民間政治臨調にとって1993年は激動の1年でした」と振り返る。
7月の総選挙で、自民党、社会党が大敗する一方、日本新党、新生党、新党さきがけの3新党は躍進を遂げ、55年体制の崩壊を印象づけました。政治改革政権を掲げる細川内閣が誕生し、自民党も並立制を掲げる段階になってなお、法案成立の道のりは険しいものでした。細川連立政権は足並みがつねに乱れがちであり、野党に下野した自民党も政治改革推進派と改革反対・慎重派との間で激しい党内対立が続いていたからです。
11月、民間政治臨調は「超党派議員との緊急合同集会」「政治改革の実現を求める緊急国民集会」を連続して開催し、亀井正夫会長は、細川首相と河野自民党総裁のトップ会談を呼びかけました。連立与党はトップ会談で合意した野党自民党の要求に応じた譲歩案に沿って修正政府案を衆議院本会議に提出し何とか可決されたものの、与野党双方から造反者が続出。1994年1月21日、緊迫した雰囲気のなかで行われた参議院本会議の採決では、連立与党の社会党から造反議員が多数出て、法案は土壇場で否決されてしまったのです。
同日夜、民間政治臨調は九段会館で細川総理や各党出席のもと政治改革関連法案の成立を祝し、さらなる政治改革を誓い合う国民集会を準備していました。しかし、当日の参議院本会議での法案否決というまさかの事態により、九段会館の国民集会は、法案の成立を最後まであきらめないことを誓い合うための決起集会の場となりました。
参議院否決に落胆し、造反者を出した責任をいちばん感じていたのは、何より山岸さんだったと思います。集会への参加を渋る山岸さんに亀井さん自らは電話をかけ、「山岸くん、大変な事態になったが、改革はこれからが正念場。ともに最後の最後まで努力しよう」と励ましたのでした。
亀井さんと山岸さんはかたい信頼関係で結ばれていました。
余談になりますが、宮沢政権当時、こんなこともありました。古武士のような亀井さんは、もともとれっきとした自民党支持者。そんな亀井さんは民間政治臨調会長としてたびたび記者会見をおこない、ときに政治改革に後ろ向き、あるいは慎重な姿勢を取り続ける自民党に対しても厳しい発言を厭いませんでした。
あるとき、そんな亀井さんの権力に忖度なしの発言に対し、某政治家が「電線屋のおやじに政治の何がわかる。民間の素人は黙っていろ」といった趣旨の発言をテレビでしたことがあります。要するに、圧力をかけてきたのでした。怒ったのは山岸さんでした。山岸さんはテレビの某報道番組にあえて生出演し、「亀井さんの悪口は断じて許さない。亀井さんはわれわれが守る」と言ったのです。あのときは心底、うれしかった。亀井さんは2002年に逝去されましたが、あのとき、亀井さんも同じ気持ちであっただろうと思います。
両院協議会も不調に終わるなか、1月28日午前、連立与党は自民党にトップ会談を要請。午後には土井たか子衆議院議長が細川首相、河野自民党総裁を個別に招いて議長調停案を提示。同日夜、細川首相と河野自民党総裁は、土井議長の斡旋を受け入れる形でトップ会談を開催し、自民党に譲歩した修正内容で合意した。同日深夜、雪が降りしきる中、細川首相と河野自民党総裁は共同記者会見を行い、ペンを交換し合意書に署名。政治改革関連4法案は、1994年3月に正式に成立に至った。
こうして1980年代から取り組まれた「政治改革」は1つの着地点をみたが、細川連立政権は短命に終わり、1994年6月には自社さ連立の村山富市政権が発足する。 民間政治臨調は、その経験を21世紀臨調へと引き継ぎ、政権交代可能な政治体制実現へのさらなるチャレンジを続けていくこととなった。
(執筆・落合けい)
《参考文献・WEBサイト》
◇佐々木毅編(1999)『政治改革1800日の真実』講談社
◇新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)編(2002)『日本人のもうひとつの選択—生活者起点(生きかた、暮らしかた、働きかた)の構造改革』東信堂
◇新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)編(2002)『政治の構造改革—政治主導確立大綱』東信堂
◇佐々木毅、21世紀臨調編著(2013)『平成デモクラシー—政治改革25年の歴史』講談社
◇21世紀臨調オフィシャルホームページ http://www.secj.jp/index.html