Season2 第5回は、第19回連合定期大会で副会長に選出された北野眞一情報労連中央執行委員長にインタビュー。単組では青年活動や社会貢献活動に奔走し、情報労連では組織拡大に注力。2023年から連合副事務局長として、連帯活動や情報発信を行う運動企画部門などを担当したのち、情報労連中央執行委員長、連合副会長に。その幅広い経験を糧に、今何を思うのか。熱い胸の内を聞きました。

北野 眞一(きたの しんいち)連合副会長・情報労連中央執行委員長
1984年日本電信電話公社(丸亀電報電話局)入職。1994年全電通香川県支部執行委員、2000年NTT労働組合ドコモ本部執行委員、2006年NTT労働組合ドコモ本部四国総分会長、2010年NTT労働組合ドコモ本部執行委員、2013年8月情報労連執行委員、政策局長、副書記長を経て2019年同書記長。2023年連合副事務局長。2025年7月情報労連中央執行委員長、2025年10月連合副会長に就任。
電電公社に技術職として入職
—ご出身について教えていただけますか?
父が転勤族でしたので、姉は大阪で、私は香川県の高松で生まれ、さらに徳島に移ってから2人の妹が生まれました。小学校3年生の時、父の故郷である三重に転勤になったんですが、ひと月も経たないうちに父が急死してしまったんです。途方にくれる母に、私たちきょうだいは「徳島に帰ろう」と…。住み慣れた徳島に戻り、高校を卒業するまで暮らしました。
就職先は香川県。高卒者の就職は、基本的に「学校推薦」で、当時から「1人1社制」というルールがありました。私も、学校のすすめで電電公社に応募しました。商業高校だから簿記の資格も取得していましたが、採用されたのは「技術職」でした。1984年4月、丸亀電報電話局線路宅内課に配属。線路宅内課は、線路(電話線)の敷設や保守、固定電話の設置・修理等を行う部署で、固定電話が主流の時代でしたが、忙しく活気ある職場でした。最初の1年は研修で基礎知識と基本技術を叩き込まれ、2年目から現場に。当時の先輩たちは職人気質の方が多く、管内は地図を見なくてもどこでも行けるし、どこにどんな電話関係の設備があるのかすべて頭に入っている。「段取り八分」と言われますが、その仕事ぶりに学ぶことは本当に多く、私も早く一人前になりたいと仕事に打ち込みました。夜は先輩に連れられて居酒屋やスナックへ。独身寮の寮母さんからは「いつも帰りが遅いわね」と言われたりしましたが、仕事もその後の一杯も楽しくて、充実した毎日でした。

新規訓練普通部各科班入学式(1984年)
いきなり香川県支部の執行委員に
—労働運動を始めたきっかけは?
電電公社は、入職した翌年(1985年)に民営化されて日本電信電話株式会社(NTT)となり、数年後から拠点集約が始まりました。私はNTT丸亀支店から香川技術センターを経て三本松営業所に異動。そこも廃止となり、1994年にNTT香川支店の設備企画部へ。新たな仕事に意気揚々と取り組み始めた矢先、全電通香川県支部の書記長から声がかかりました。組合活動の経験といえば、一組合員として集会やイベントに参加した程度。でも、組合が頑張ってくれていることも知っていたので、「月に1度くらいならお手伝いします」と答えたら、分会役員も経験しないまま、いきなり香川県支部の執行委員に。担当は青年活動で、若い組合員がもっと組合活動に関心を持てるようにすることが、私に課せられた任務でした。
任務を遂行しようとすると、驚くほどやることがたくさんある。気づいたら、月に1度も職場に行けなくなっていました。組合活動を甘く見ていたと反省し、職場の上司に相談したら、「中途半端はやめなさい。労働組合もしっかりやれば勉強になるから頑張りなさい」と。その言葉に背中を押され、思いも寄らない方向へ歩み出すことになりました。それが労働運動を始めたきっかけです。

連合香川 青年委員会第8回総会(1997年)
豊島問題への関わりが私の原点
—香川県支部ではどんな活動を?
青年委員会の活動費は年間10万円ほど。そこで、物品販売活動に取り組み、活動資金に充てました。独自の広島平和行動を企画したり、沖縄の平和行動に多くの若年組合員を参加させるなど、「一人の百歩より、みんなの一歩」を意識した活動に取り組みました。当時感じたことは、「平和と民主主義なくして労働運動なし」を信念とした全電通運動のすごさでした。この時から、会社業務だけでは経験できなかったであろう労働運動、組合活動に魅了されていくことになったと思います。
そして、青年活動の一つとして、豊島問題に関わることになりました。瀬戸内海に浮かぶ豊島には、1970年代半ばから有害産業廃棄物の不法投棄が続き、悪臭や騒音、煤煙による健康被害が出る中で、住民たちが「廃棄物対策豊島住民会議」を結成し反対運動を展開。1990年には業者が摘発されますが、原状回復をはかるべき香川県は、その責任を放棄し、大量の廃棄物を放置したまま「安全宣言」を出したんです。住民会議は、県の対応に猛抗議し、国に働きかけ、世論にも訴えました。1993年には、中坊公平弁護士を中心とする弁護団が結成され、公害調停を申請。県庁前での抗議行動やキャラバンなど「草の根の闘い」が繰り広げられました。私は、「行政の無謬性」(行政機関は間違いを犯さない)に問題意識を持ち、青年活動として取り組むことにしたんです。公害調停は2000年に合意が成立し、知事が謝罪して原状回復が約束されましたが、弱い立場にある人たちが、声を上げ、行動し続けることが、社会を変える力になる。これは労働運動や平和運動にも通じるものであり、私の運動の原点になりました。

「豊島」の”ごみの山” 出所:「公害資料館ネットワーク」HP https://kougai.info/archives/887
もう一つ直面したのは、構造改革への対応です。NTTグループは、1999年に持株会社体制に移行し、全電通もこれに対応して1998年12月にNTT労働組合に名称変更しました。通信は生活に不可欠なインフラであり、NTTは山間部や島嶼部にも通信設備を整備してきましたが、その維持管理には大きなコストがかかる。構造的赤字への対応として拠点の統廃合や事業転換は避けられない状況でしたが、それは組合員にとって、職場がなくなったり、職種の転換を求められることを意味します。とにかく職場組合員の意見を聞いて、それを少しでも移行条件に押し込んでいく交渉が続きました。厳しい意見も投げかけられましたが、労働組合の役割を深く考える機会にもなりました。
—2000年に東京のNTT労働組合ドコモ本部へ。
全電通は地方本部体制でしたが、NTT労組は会社体制の再編成に対応して企業本部体制に移行。そんな最中、離婚したばかりの私に、香川県支部委員長から「ドコモ企業本部で四国出身の役員を探している。後ろ髪引く人はいないから行ってみたら」と声をかけられ、心機一転東京へ。ドコモ企業本部で情報宣伝や事業対策を担当し、3期6年務めた後、四国に戻ってドコモの四国総分会長を2期4年。足掛け16年間も労働組合で過ごしましたから、次は職場に戻るつもりでした。
ところが、2010年にドコモ企業本部に呼び戻され、交渉・政策担当部長に。赴任して8ヵ月後に3.11東日本大震災が起き、被災地の通信設備も大きな被害を受けました。会社は直ちに全国からの応援体制を組んで被災地へ。組合は組合員の安全確保のために会社と細部にわたる条件交渉を重ねました。工事車輌の優先通行などのルールがなくて苦労しましたが、4月末までに音声通信をほぼ復旧させることができました。
労働者を守るための「最後の砦」
—2013年に情報労連へ。
情報労連に移って初めて組合専従になりました。情報労連は、加盟組合数237、組合員数約19万人の複合産別で、情報産業以外の中小組合も多数加盟しています。
最初は政策担当に。NTT労組では法律を上回る労働協約を締結していましたが、中小の加盟組合では労働基準法すら守られていないところがある。その実態を知る中で、いかに政策・制度の取り組みが重要かを痛感しました。また、情報通信事業の環境変化はめまぐるしく、産業政策の重要性もあらためて認識しました。
連合のベルコ闘争にも関わりました。2014年、連合北海道への労働相談をきっかけに冠婚葬祭互助会「ベルコ」の代理店で働いていた従業員が労働組合を結成しましたが、会社から解雇され、裁判所と労働委員会に提訴しました。ベルコの問題点は、全従業員の大半が「業務委託契約」とされていて、会社側は「労働者ではない」と団体交渉にも応じなかったことです。連合は「使用者責任逃れの偽装雇用を許せば日本の雇用社会が崩壊する」と支援を呼びかけ、これに応えて情報労連は2015年9月に全ベルコ労組の加盟を承認し、地域組織の北海道協議会を中心に支援体制を組みました。時間はかかりましたが、2022年に労働者性を認める歴史的和解が成立したのは、連合本部が主体となり、連合北海道、弁護団が強力な支援体制を構築したからだと思います。現在、全ベルコ労働組合は、組織拡大に苦戦しつつも、会社と交渉を重ね職場を良くする取り組みを進めています。
—2019年には書記長に就任。力を入れた課題は?
財政基盤と組織拡大の強化です。組織人員は減少傾向にあり、財政は厳しい。活動の効率化をはかり、地方組織への交付金などのルールづくりに取り組みました。組織拡大では、まず足元を固めようと主要加盟組合のグループ企業や関連企業の組織化を重視。全国に配置していた8人のオルガナイザーを中央本部直轄とし、役割を明確化。また、UAゼンセンやJAMのオルガナイザー研修等に参加させてもらい、力量アップにも努めました。

UNI Apro事務所(シンガポール)へ内部監査に行った際の一枚(2022年頃)
—連合副事務局長も歴任されました。
連合本部に着任してまもない2024年元日、能登半島地震が発災。連帯活動の責任者として現地調査やボランティア派遣の対応に当たりましたが、構成組織のみなさんが積極的に協力してくれて本当にありがたかったです。
産別時代からですが、労働政策審議会における連合推薦の労働者代表委員の姿勢に感動しました。組合員だけでなく、すべての働く人の立場にたって果敢に発言する。三者構成の労政審は労働者を守る「最後の砦」であり、これぞ連合だからできることだと思いました。
台所もお風呂も洗面台もピカピカに
—ワーク・ライフ・バランスは大事にされていますか?
香川から東京に来る前に離婚したと言いましたが、その後再婚して18歳になる息子がいます。「離婚は忍耐力の欠如、再婚は記憶力の欠如」と言われますが、私の仕事は、出張も多いし夜も遅い日がある。妻に負担をかけないよう、自分の身の回りのことは食事の支度も含めて全部自分でやる。加えて休日は家中の水回りの掃除を徹底的にやる。それがワーク・ライフ・バランスのマイルールです。ただ、妻は納得していないと思います(苦笑)。
—癒やしの時間は?
毎朝のチロちゃん(柴犬)との散歩です。夜どんなに遅く帰宅しても、
出張がない限り朝5時に起きて散歩に行きます。その日何をするかを
考える時間にもなっていて、1日の始まりのスイッチを入れてくれる。
散歩を終えたら朝ご飯をつくって、シャワーを浴びて出勤します。
チロという名前は、息子が自分の名前から2文字とってつけました。

—最近のマイブームは?
スターバックスの「マイストアパスポート」です。店舗を利用すると、その店舗のオリジナルデジタルスタンプがもらえて、利用店舗数や利用回数が一定条件に達すると、トラベラーやリピーターなどのメダルがもらえる。何か特典があるわけではないんですが、出張時のささやかな楽しみなんです。
—座右の銘は?
今一番大事にしているのは「知覚動考」(ちかくどうこう)という禅の言葉。知って・覚えて・動いて・考える。大事なのは動くこと。動いてから考えろと…。
—尊敬している人は?
情報労連の書記長になった時、その歴史をきちんと知っておきたいと、運動史に目を通し、退職者の皆さんから話を聞いてきました。2026年3月末で136年続いた104番号案内が終了しましたが、通信の現場ではいつの時代も多くの女性が活躍してきました。交換機の自動化などで職種転換に直面しながらも、労働組合の女性たちは、働き続けるために、育児時間・休職、看護休暇などを要求し、法制度ができるずっと前から協約化してきました。そのパワーは今も受け継がれています。
60年を超える情報労連運動の根底は、基本理念にあります。「私たちは、信頼と共感を礎に、社会的価値ある労働運動を推進し、誰もが暮らしやすい社会をめざす」です。先人・先達たちは、社会・経済などの変化に対応しつつ、常に社会的価値ある産別運動を積み重ねてきました。“過去があって現在があり、現在は未来のためにある”そうした思いで「社会的価値ある運動」を実践してきた先人・先達たちこそ、私の道しるべです。
—世界情勢が悪化する今、連合副会長として思うことは?
労働組合は、「戦争は最大の人権侵害」「平和と民主主義なくして労働運動なし」を合言葉に、核兵器廃絶や平和運動などに取り組んできましたが、国内では今、与党が絶対的な数の力を背景に「国論を二分する大胆な政策」を推し進めると表明し、労働法制をめぐっても逆行する動きが強まっています。そういう中で、労働組合には何ができるのか。
『あしたのジョー』で知られる漫画家のちばてつやさんは「戦時中、権力を持つ側は国民を守ることが仕事なのに、国民を抑えつけてしまっていた。国民は目をふさがれ、口をふさがれ、耳をふさがれていた」と語っていますが、国家の秩序や国益を最優先する国家主義的な政治が世界的に台頭する中で、沈黙は最大の罪だと思うんですね。
武力紛争の背景には経済的な摩擦が存在します。ILOの「フィラデルフィア宣言」にある「一部の貧困は全体の繁栄にとって危険である」という言葉には、貧困や劣悪な労働環境が放置されれば、それが社会不安や経済危機を招き、結果として社会全体(または世界全体)の繁栄や平和が脅かされるという歴史の教訓が込められています。自国ファーストだけでは平和は守れない。労働組合は今こそ声を上げ、本来の大衆行動で世界平和を求める民意を示していかなければいけないと考えています。

(構成:落合けい)
