上野駅北方の三ノ輪駅・南千住駅の近くに祖母の眠る「円通寺」がある。
母の実家が近くの日本堤にあったので、小さい時に祖母に手を繋がれて先祖の墓参りに行った記憶がある。円通寺には、戊辰戦争で新政府軍と戦った旧幕府軍の「彰義隊」が立て籠った上野寛永寺の「黒門」が今も敷地内に保存されている。
彰義隊は、江戸幕府第15代将軍、徳川慶喜の警護などを目的として結成された組織で、2024年度から発行される新1万円札の肖像となる渋沢栄一も参加していたことをご存じだろうか。慶応4(1868)年5月の上野戦争は激戦の末、彰義隊の敗走でわすが1日で終わったが、円通寺の仏磨(ぶつま)和尚は、累々と横たわる隊士266体を上野で火葬し円通寺に収骨した。これが縁となって明治40(1907)年、寛永寺の黒門が円通寺に移された。黒門には今も無数の鉄砲玉の跡があり、戦いがいかに壮絶なものであったかを物語っている。
円通寺は、8世紀後半に最初の征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が開創した由緒ある寺である。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる平安時代後期に活躍した源義家(八幡太郎義家)が奥州征伐からの帰途に賊の首を埋めて、この地に塚を築いたことから、円通寺周辺は「小塚原(こづかっぱら)」と呼ばれるようになる。江戸時代に作られた小塚原刑場は明治初期まで使われ、彰義隊の敗残兵もこの地で露と消えている。安政の大獄の吉田松陰もこの地で命を落としている。
時代の流れの中で、翻弄された多くの人々を思い一句「黒門の 露と消えゆく 夏木立」
小塚原刑場の近くに「泪橋(なみだばし)」があった。罪人が牢を出て刑場へ連れて行かれる際にこの橋を渡り、駆けつけた家族がひっそりと涙しながら最後の別れを惜しんだと言われている。橋は今はなく、その名が交差点やバス停に残るのみだ。
泪橋と聞くと50年以上前に大ヒットした漫画『あしたのジョー』を思い浮かべる人も多いかと思う。東京の下町の簡易宿泊街に少年、矢吹丈がふらりと現れる。少年院帰りの丈(ジョー)は、泪橋の下に丹下段平が構えた小さなジムで、ライバルの力石徹の打倒をめざしてボクサーの道を歩み始める。
そんな物語の中で「だが、今度はわしとおまえとでこのなみだ橋を逆に渡り、あしたの栄光を目指して第一歩を踏み出したいと思う」、ジョーのボクシングセンスを見抜いて惚れ込み、一流の選手に育て上げ、世の中の人間を見返してやるという決意と野心、強い想いを表した丹下段平のセリフは有名だ。泪橋近くの「いろは会商店街」の入り口には矢吹丈の等身大のフィギィアがたたずんでいる。
どん底から這い上がるジョーや力石の命をかけた格闘を思い一句「雨蛙 夢つかみ取る 泪橋」