リーダーズボイス

「長崎・城山小学校」清水事務局長のFree Walk【4】

8月8日の午後、連合は被爆78年「連合2023平和ナガサキ集会」を開催した。9日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典は、台風6号の接近にともなって、会場が市内の「出島メッセ長崎」に変更され、参加者も長崎市の関係者に絞られた関係で、私は平和公園で11時2分の黙祷を行った。

8日の午前中に城山小学校を訪問した。

城山小学校を訪問した(本人撮影)

敷地内には国指定史跡・長崎原爆遺跡の旧城山国民学校の被爆校舎が保存され、城山小学校平和祈念館として公開されている。当日も小学生の訪問団がいくつも訪れていた。

当日も小学生の訪問団がいくつも訪れていた(本人撮影)

爆心地から約500mにあった城山国民学校では、当時、学校にいた教職員31人のうち28人が亡くなり、およそ1,500人の児童のうち1,400人余りが家庭で亡くなったと推定されている。また、当時、三菱重工業長崎兵器製作所の給与課が疎開して学校を使用していたため、その所員や動員学徒等の約120人(長崎経済専門学校・県立長崎高等女学校・市立商業学校・女子商業学校・瓊浦高等女学校の生徒)のうち100人余りが亡くなった。運動場には、爆心地に対峙するように原爆殉難者之碑がある。

運動場には、爆心地に対峙するように原爆殉難者之碑がある(本人撮影)

碑の後方には、当時、防空壕の入り口があった。当時の教頭、荒川秀男さんの言葉が平和祈念館に掲示されている。「『痛い…苦しい…』『熱い…寒い…』『お母さん…もう死ぬ』げ-げ-と吐く者、『水を…』と、悲痛な声が壕内にこだまし、いつまでも続いて絶えることがない。防空壕は筆舌につくしがたく実に悲惨であった。一夜のうちに、この人たちのほとんどが、なんの手当もうけないで、苦痛を訴えて亡くなっていった。」

城山小学校では、1951年から毎月9日に平和祈念式を行っている。今年の7月で864回となった。被爆50周年の1995年からは『平和への発信』をテーマに「私たちにできること」を考え合い、平和の大切さについて全校児童で学習を続けている。継続は力なり、「平和は城山から」を合言葉に学びと発信を続けていることに敬意を表する。

城山小学校がある丘を降りていくと長崎電気ビル(九州電力長崎営業所)がある。その敷地内の「被爆少年少女追悼之碑」には次の碑文が刻まれている。「その日に空襲警報の解除をまって家をとびだした子供たちや 川えびや うなぎのすむ浦上川に魚を求めて遊んでいた城山小学校の児童ら千四百名は逃げることもできず焼死した <中略> 人々はこの事実に目を覆ってはならない 心してきけ 平和はいかにしてあがなわれたかを 三十三年たっていまもなお このいやすことのない長崎の悲劇は 全人類への警告として広く長く語り継がれなければならない」

敷地内の「被爆少年少女追悼之碑」には碑文が刻まれている(本人撮影)

私は、二度と過ちを繰返さないこと、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を改めて誓った。

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