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「両国」清水事務局長のFree Walk【11】~東京都慰霊堂・刀剣博物館~

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 隅田川沿いのJR両国駅に隣接して両国国技館と江戸東京博物館(改修工事で休館中)がある。さらに、駅から徒歩10分、蔵前橋の近くに「横網町公園」がある。この公園は「被服廠跡」とも呼ばれ、昨年発災から100年となった1923(大正12)年の関東大震災の際、移転で空き地であった陸軍の被服廠(軍服製造の工場)跡に避難した約4万人のうち、3万8千人余りの焼死者を出した悲劇の場所だ。運び込まれた家財道具に飛び火し、台風の影響による強風でさらに燃え広がり、多くの犠牲者を出した。遭難者を供養し、震災の惨事を後世に伝え、焦土を復興させた事業を記念するため、1930(昭和5)年に「震災記念堂」が、1931(昭和6)年に「復興記念館」が建設された。その後、震災記念堂は東京大空襲などの犠牲者の遺骨も安置することになり、名称が「東京都慰霊堂」と改められ、遺骨は、関東大震災による5万8千人、東京大空襲などによる10万5千人に上る。毎年9月1日と3月10日には慰霊法要が行われる。90歳になる母は、焼夷弾が降り注ぐ東京大空襲の中を逃げて生き延びた体験を幼い私に語ってくれた。命を繋いでくれた母への感謝と平和を語り伝えていく責務を思う3月10日である。

左上:横網町公園の震災遭難児童弔魂像
左下:横網町公園の東京都慰霊堂
右:横網町公園から東京スカイツリーを望む


 公園内には、震災で亡くなった5千人余りの児童の冥福を祈る「震災遭難児童弔魂像」がある。また、「焦土のさ中にあって再建に奮いたつ市民の意気に感激し、復興と題してよんだ」永田秀次郎・東京市長の『焼けて直ぐ 芽ぐむちからや 棕梠(しゅろ=)の露』の句碑がある。その傍らには、震災50年の節目にあたる1973(昭和48)年に建立された朝鮮人犠牲者追悼の碑があり、石版には「震災の混乱のなかであやまった策動と流言飛語のため6千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命をうばわれました~この事件の真実を知ることは不幸な歴史をくりかえさず民族差別を無くし人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎になると信じます~」と刻まれている。

上:刀剣博物館
下:旧安田庭園から観る刀剣博物館


 横網町公園の近くに「刀剣博物館」がある。日本刀は武器以外に、権威の象徴という面もあったが、明治維新の廃刀令によって本来の役割を終え、さらに第二次世界大戦後のアメリカ駐留軍によって武器と見なされ没収の対象となり、壊滅の危機に瀕した。戦後の混乱を脱し、1948(昭和23)年に日本刀の保存・鑑賞・研究・伝統継承のため日本美術刀剣保存協会が設立され、刀剣博物館は付属施設として1968(昭和43)年にオープンした。館内には、刀剣類をはじめ、刀装具や甲冑など多くの所蔵品があり、国宝の太刀もある。協会では年に一度、作刀(刀匠)や研磨(研ぎ師)、鞘つくり(鞘師)などの部門ごとに「現代刀職展」というコンクールを開催しているが、昨年、連合総合生活開発研究所(連合総研)の前専務理事の新谷信幸さんが研磨の部で入選した連絡があり、今回の訪問となった。
 日本刀は、日本人の豊かな感性により武器を美術工芸品に昇華させたといわれる文化財であり、千年を越えて大切に保存されてきた。日本刀に美を感じる人は多い。刀剣博物館には老若男女を問わず、外国人も含めて多くの来館者があり、長い時間、太刀の美しい反りや波紋を堪能している姿があった。私は、小学3年生から牛込警察署で剣道を始めたが、赴任した中学校の文化祭で、畳を真剣で切ったことがあった。その日本刀の美しさとずっしりとした重さ、斜めに切り落とした時の滑らかな感覚を今でも覚えている。

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