2016年4月、熊本地方は14日夜と16日未明に最大震度7の大地震に見舞われた。前震はマグニチュード6.5、本震は7.3。震源に近い熊本市や益城町では多数の家屋が倒壊し、阿蘇地方では大規模な土砂崩れが発生、県のシンボルである熊本城の石垣も崩落した。人的被害は、直接死が50人、関連死が219人、負傷者2753人、住宅被害は19万棟以上にのぼり、道路・鉄道の寸断、通信障害、断水や停電が続く中で避難者は一時18万人を超えた。連合熊本は、事務所が甚大な被害を受けながらも、構成組織の安否確認や救援物資の受け入れに奔走。連合本部は、「対策救援本部」を設置し、「緊急救援カンパ」(総額2億847万円)や「連合救援ボランティア」(2ヵ月間・延べ1615人)の派遣に取り組んだ。
あれから10年。災害は、いつ、どこで、どんな形で起きるか分からない。熊本地震において、労働組合はどう行動したのか。今、伝えたいことは何か。明日に備えるために、当時最前線で対応にあたった連合熊本の役員・OBを訪ね、話を聞いた。
(本内容は季刊「RENGO」2026年春号に掲載した内容を再掲したものです)





立ち入り禁止となった連合熊本の事務所
2016年の熊本地震は、横ずれ断層型による直下型地震。連合熊本の会長であった上田淳さんは、発災時をこう振り返る。
「前震当日は、要求と提言作業部会のメンバーと居酒屋で合流してまもなく、店内がグワンと揺れ、焼酎の瓶が棚から落ちて散乱しました。直後から電話が次々かかってきて帰宅できなくなり、連合熊本の事務所に戻って仮眠。本震の時は、菊池市の自宅にいましたが、深夜、緊急地震速報が鳴るのと同時に激しい揺れがきて、公民館に避難。自宅は無事だったので、家族のために水を確保してから事務所に向かいました。途中、熊本城の石垣が無残に崩れ落ちているのを見て衝撃を受け、事務所内に入ると、パソコンや事務機器が床に打ちつけられ、書類が散乱して足の踏み場もない状態。言葉を失いました」。
会館は倒壊の危険があると判断され立ち入り禁止に。連合熊本の事務局長であった佐々木義博さんは「パソコンも書類も取り出せず、どこに何を連絡すればいいのか分からない。支援物資が届いても保管場所がなくビニールシートの上に野積みするしかなかった。拠点がなければ動けないと、県庁に近い自治労会館に仮設事務所を置かせてもらいました」と語る。
最大震度7の被害は甚大だった。震源に近い益城町では、多数の家屋が倒壊し、通信障害や停電、断水が発生。阿蘇地方では、大規模な土砂崩れが発生し、阿蘇大橋が崩落した。
山本寛連合熊本会長は「当時は情報労連熊本県協議会の議長でしたので、組合員・ご家族の安否確認や支援物資の配給に奔走していたことを思い出します。私自身も、熊本市内の自宅は一部損壊の被害を受け、断水は1週間、ガスの供給停止は3週間ほど続きました。トイレが使えず食事もままならない。本震の翌日、避難所に避難した人は18万3882名と記録されていますが、指定避難所には行かず、学校の校庭などに車を停めて車中泊していた避難者は相当数いました。直接死は50名となっていますが、もし交通機関や商業施設が営業している日中に本震が起きていたら、犠牲者はもっと増えていたと思います。備蓄品はあっという間に底を尽き、避難所となった熊本国府高の校庭には『カミ パン 水 SOS』という椅子文字が描かれ、その画像が拡散されたこともあり、全国から支援物資が届けられましたが、一方で『ライオンが逃げ出した』などのフェイク動画が拡散されるという混乱した状況もありました」と証言する。


「プッシュ型支援」による迅速な初動
労働組合はどう支援に動いたのか。
益城町の井関農機熊本製造所は、操業停止を余儀なくされ、「社員の自宅は、2人に1人が一部損壊、10人に1人が全壊」という状況だったが、厚生グラウンドをボランティアセンターに提供。井関農機労働組合は、そこでボランティアセンタースタッフへの炊き出しや車の誘導などにあたった。
「4月19日には九州ブロックの佐賀、長崎からトラックで水やインスタント食品、カセットコンロが届いて、本当にありがたかったですね」と上田さん。
「プッシュ型支援」と言われる初動の背景には、県中心部での発災という地理的条件に加えて、日頃のネットワークがあった。「九州ブロックは事務局長会議(幹事会)を頻繁に開催し、春季生活闘争キャラバンや平和行動もブロック全体で取り組んでいた。お互い良く知る仲だから、対応も速かった。当時のメンバーとは、いまだに年に何回か集まっているんです」。
連合本部の動きも早かった。神津里季生会長(当時)は4月18日、「このような時にこそ、労働運動の原点である『助け合い・支え合い』の姿を体現し、社会的な役割を果たしていかなければならない」と声明を発し、4月19日発行の「連合災害救援ニュース」第1号には、緊急カンパや要請行動、物資提供、ボランティア派遣に取り組むことが記された。
佐々木さんは「本震の翌々日、連合本部の山根木総合組織局長(当時)から電話があり、ボランティアを派遣するからベースキャンプをつくってほしい、場所は任せると言われました。20日には逢見事務局長(当時)が『連合愛のカンパ』から拠出した500万円の緊急支援金を届けてくれ、翌21日には初期対応の調整を担当した宇田川組織拡大・組織対策局長(当時)が熊本に到着。何をすればいいのか分からない状態でしたが、本部の指示で頭の切り替えができた。費用は心配するなと言われたことも心強かった」と振り返る。
山鹿市にベースキャンプを設置
熊本市内は、食料も物資も不足し、避難所には人が溢れ、ボランティアの宿泊施設の確保は困難な状況にあった。そこで白羽の矢が立ったのは、熊本市から25㎞ほど離れた山鹿市だ。同地域は震度5を観測したが、建物やインフラの被害はなく、道路が復旧すれば数十分で被災地に入れる。
山鹿市に事務所を置く肥後有明地協の勢田昭一事務局長(当時/現山鹿市議会議員)に相談したところ、市内に中高生が合宿で使う施設「恵の里」があるとの情報が得られた。大広間も風呂も別棟の女性用宿舎も大型バスが入れるロータリーもある。連合本部と一緒に施設との交渉にあたった勢田さんは「最初は難色を示されたが、連合本部の交渉力で突破した。東日本大震災のボランティアの経験があったからこそ、費用面も含めて即断即決ができたのではないか」と言う。
農業高校の教員だった勢田さんの案内で必要な備品の調達も順調に進んだ。福岡のJR九州労組の会議室を集合場所とし、そこから第1陣がベースキャンプ入りしたのは5月3日。日曜日に結団式を行い、月曜から平日の5日間ボランティアに入り、土曜日に解団式というのが1クール。最初は九州ブロックなど近隣の地方連合会から参加者を募り、第3陣以降は全国の構成組織に派遣を要請した。

雨が降ったら山鹿温泉でリフレッシュ
ベースキャンプ設置に続いて手腕が問われるのが、ボランティアセンターとの調整だ。担当した佐々木さんは「熊本市内や益城町などにボランティアセンターが相次いで開設されましたが、いきなり行っても仕事を割り振ってもらえるとは限らない。連合は平日50人を送れると伝え、事前に関係を築きました。スタート後は、毎朝各地のボランティアセンターを回って、その日に必要とされる人数を調べ、ベースキャンプに連絡して割り振り。ニーズは日々変わりますが、被災地のために頑張りたいという思いに応えられるよう奔走しました」と語る。
受け入れ側として苦労はなかったのだろうか。勢田さんは「朝6時、みなさんを笑顔で送り出し、夕方、これから帰ると連絡があるとお風呂のスイッチを入れ、おかえりなさいと迎える。雨が降ったら活動休止になるので山鹿温泉でリフレッシュ。星がきれいなことや、地元の採れたて野菜の美味しさに感動してくれて嬉しくなりました。また東日本大震災の被災地から駆け付けてくれた地協のみなさんとの交流は今も続いています」と笑顔で答えてくれた。
現地の負担にならない支援
連合ボランティアは、6月26日スタートの第9陣の活動をもって終了したが、その経験はその後の活動にどう活かされたのか。
肥後有明地協の入江謙二事務局長は「当時、単組の書記長でしたが、支援物資の受け取りや激励に来る役員の宿泊手配などに追われていました。でも、連合本部は、まず先遣隊を送り込み、自前で宿泊場所や支援体制の基盤をつくった。だから、連合熊本や地協は、連合本部への対応に力を割かれることなく、災害対応に集中できた。『現地(被災地方連合会)に負担をかけない』『現地の指示に従う』『安全確保』というボランティアの心得が徹底されていた。緊急事態におけるリーダーシップを学びました」と語る。
佐々木さんは「ボランティアを通じて地方連合会の副事務局長や地協事務局長は横のつながりが十分でないことが分かり、九州ブロックの副事務局長会を開催することにしました。熊本地震の後、福岡や佐賀の豪雨災害のボランティアに参加してきましたが、ブロック全体で災害支援の経験が蓄積されていると感じます」と言う。
蒲島県政による「創造的復興」
被害を受けた住宅は19万棟以上、空港や鉄道、道路も大きな被害を受けたが、復興は順調に進んだのか。当時の蒲島郁夫熊本県知事が打ち出したのは、壊れたものを元に戻すのではなく未来につながる復興にしていこうという「創造的復興」。進捗状況を見ると、①「すまい」の再建は、仮設住宅から災害公営住宅への入居がほぼ完了、②災害廃棄物の処理も終了し、③阿蘇へのアクセスルートの回復として新阿蘇大橋が2021年3月に開通。④熊本城の復旧は、修復工法の関係で2052年度完了予定だが、⑤益城町の復興まちづくりの県道熊本高森線4車線化(約3・8㎞)はほぼ完了、⑥被災企業の事業再建、⑦被災農家の営農再開も順調に進んでいる。⑧大空港構想Next Stageによって、2023年にリニューアルオープンした阿蘇くまもと空港は、国内線と国際線のターミナル機能が一体化し利用者が急増している。⑨八代港のクルーズ拠点整備も完了、⑩国際スポーツ大会として招致した女子ハンドボール大会、ラグビーワールドカップも成功裏に開催。⑪熊本地震震災ミュージアム、⑫ONE PIECE熊本復興プロジェクトも完成し、注目を集めている。
上田さんは「蒲島知事は連合との協力関係を重視してくれていました。一人ひとりの被災者にとっては長くて苦しい日々だったと思いますが、蒲島県政のもとで、初動もその後の復興も速かったと思います」と10年を振り返る。
労働組合もBCP(事業継続計画)が必要
熊本地震の教訓や課題は何か。「連合熊本は、災害対応マニュアルを作成していなかった。災害時、まず必要なのは、安否確認の連絡体制と行政との連携体制の明確化。ボランティアセンターを運営する社会福祉協議会などとの関係を日頃から構築しておくことが必要だと痛感しました」と上田さん。
佐々木さんは「労働組合もBCP(事業継続計画)が必要。地方連合会でも地協でも、拠点が失われた場合、どこに機能を移すのか考えておかないと、連絡も支援物資の受け入れもできなくなる。連合熊本では、その反省を踏まえて、BCPの考え方を整理し、ボランティアの対応マニュアルや備品リストを作成しました。しかし、私を含め最前線で活動した人の多くは現役を引退し、当時を知らない役職員が増えている。10年の区切りに改めて労働組合の経験を形に残しておく必要があると感じます」と投げかける。
「地協事務局長としてベースキャンプを運営した経験を活かせると思い議員になった」という勢田さんは、肥後有明地協として3市町の首長と意見交換会を毎年開催し、地域における協力関係を深めている。
連合熊本は、10年の節目をどう迎えるのか。山本会長は「今年は、県への政策・制度要求において、災害時における雇用問題への対応や、防災や減災について改めて政労使の連携強化を求めていきます。構成組織や関係団体でも防災イベントが企画されていますが、時間とともに風化していく記憶を掘り起こす機会を持つことは大事。『万が一に備えて』と言われますが、万が一は0・01%。最近の災害発生頻度はそんな低いレベルではありません。車のガソリンは半分になったら満タンにする、簡易トイレを備蓄する、そんな身近なことから今すぐ備えてほしい。例えるなら、野球で塁に出た時、牽制球が来ると思っている時とそうでない時とでは体重のかけ方が微妙に違う。どんな心構えをしているかで、間違いなく一歩目が変わる。こうして熊本地震の経験を聞くだけでも、きっと役に立つことがあると思います」と語ってくれた。
