ユニオンヒストリー

連合結成秘話[後編]
「天の時」「地の利」「人の和」

「後編」は、いよいよ連合結成に至る労働戦線統一の流れを追いかけよう。
本格的な統一への起点となったのは、1970年11月に発足した民間6単産(電機労連、鉄鋼労連、全鉱、全金同盟、電労連、全機金)による「統一世話人会」と言われているが、それから1989年11月の連合結成までには20年近い歳月を要している。
どんな紆余曲折があったのか。そして、労働組合のリーダーたちは、その難題をどう乗り越えたのか。

それでもリーダーたちは諦めなかった

月刊連合1990年11月号

1988年春に創刊された「月刊連合」には、初代の連合会長、会長代行、事務局長、そして副会長たちの晴れやかな笑顔の写真が掲載されている。
結成25年プロジェクトとして企画された『語り継ぐ連合運動の原点』の取材・執筆にあたったジャーナリストの飯田康夫氏は、リーダーたちの思いをこう語る。

「不退転の決意」という言葉を何人もの方から聞いた。
イデオロギー的な対立から何度も挫折と失敗を繰り返したが、それでも、リーダーたちは諦めなかった。日本の労働運動を、「社会的価値のある運動」「国民に期待され親しまれる運動」「国際的に通用する運動」にしたいという強い思いがその根底にあった。
また、長く苦難の道のりであったからこそ、「連合」に対する愛着もひとしおであり、連合運動のその後の歩みにも深い関心を寄せていた。

印象的だったのは、人的交流の広さだ。政界・官界・財界・文化人やマスコミ関係者とも交流を結んだ。山岸さんの人脈の広さは抜群だった。藁科さんは、作家の司馬遼太郎さんや大河内一夫元東大総長さんとも歴史談義を交わしていた。
山田精吾さんは、次代のリーダー育成にも力を注いだ。後に連合会長・事務局長となる笹森清さん・草野忠義さんも「山田学校」で鍛えられた。「顔合わせ、心合わせ、力合わせ」で連合が地盤を固め得たのは、山田さんあってのことだと思う。
(月刊連合2014年11月号より再構成)

月刊連合2014年11月号

「民間組合の先行結集」による統一へ

では、物語を続けよう。
前編の終わりに「1967年末、総評に加盟する全逓の宝樹文彦委員長が『月刊労働問題』に労働戦線の統一を提起する論文を発表」と記したが、そのインパクトについて、菅井義夫元UIゼンセン同盟副会長は、こう語っている。

「宝樹論文」が出た時、私は愛媛県のオルグをしていた。新聞で読んで、当時、全繊同盟にいた山田精吾さんに全文を送ってもらったが、山田さんも「これはいい」と評価していた。ただ、同盟内の反応は「労働界が分立しているのにはそれなりの理由があるからで、一個人の提唱で統一に向かうような状況にはない」というものだった。
総評内部でも左右両派から激しい批判があったと聞くが、その年の総評大会では共闘組織体制推進や政党支配排除などの「原口4原則」が採択されている。

注目されたのは、地方での動きだ。大阪では、松下電器、住金、関西電力、東レなどの各労組を中心に大阪民労協が形成され、1970年に「全国民間労組委員長懇話会」(全民懇)が発足。統一に向けた下からの原動力になったと思う。
(月刊連合2014年11月号より再構成)

1970年11月には民間6単産(電機労連、鉄鋼労連、全鉱、全金同盟、電労連、全機金)による「統一世話人会」が発足。労働4団体が了解する「拡大世話人会」を経て、翌年「民間単産連絡会議」(以下、「22単産会議」)へと発展する。
しかし、1973年の春闘で、総評が「年金スト」を実施したことから、政治ストに反対する同盟との間で対立が起き、「22単産会議」は解散を余儀なくされた。

初の「年金統一スト」(1973年4月17日)出所:公益財団法人総評会館

それでも統一の灯は消えなかった。「22単産会議」の失敗を教訓に「民間組合の先行結集」で統一を進めようという気運が高まったのだ。
1973年11月には上部団体抜きの「民間労組共同行動会議」が作られ、10単産の書記長による有志懇談会を経て、76年10月には「政策推進労組会議」が発足。

前川忠夫元連合副会長・JAM顧問は、当時をこう振り返る。

ナショナルセンターの代表者は看板を背負っているから、イデオロギーや政策論から議論を始めたらまとまるものもまとまらない。それに比べて産別は、ナショナルセンターに加盟していても自由が効く。総評の鉄鋼労連、同盟の自動車労連や電力労連などはかなり自由闊達に活動していた。産別先行で労戦統一の機運を高めていくために、まず人間関係の構築が求められたのだと思う。
(月刊連合2014年11月号より再構成)

オイルショックと経済整合性論

統一の動きが加速した背景には、国内外の環境変化もあった。
日本は、1960年代末に「世界第2位の経済大国」となっていたが、1970年代に入ると、ドルショックによる急激な円高や、オイルショックによる激しいインフレに見舞われ、企業は「減量経営」に乗り出していく。
1974年春闘では、物価上昇に対応して32.9%という史上最高の賃上げを獲得したが、「狂乱物価」に歯止めはかからなかった。

そこで、1975年の春闘では、民間組合が政府に物価抑制策を要請するとともに自ら賃上げ要求を抑制。インフレは急速に沈静化した。同年11月には、公務員・公共企業体職員等の労働組合(公労協)が、8日間にわたるスト権奪還ストを展開したが、政府は要求を拒否。戦略の見直しが模索されることとなった。

スト権スト突入宣言集会(1975年11月20日)出所:公益財団法人総評会館

賃上げ抑制による物価安定化は「経済整合性論」と呼ばれ、日本の労働運動の1つの転機となったが、その経験を共有して発足したのが「政策推進労組会議」だった。
幅広い産業の33単産が参加し、加盟組合員数は500万人超。その専従事務局長として手腕を発揮したのが、のちに連合初代事務局長となる山田精吾氏だった。

「経済政策」「雇用」「物価」「税制」を課題に

山田事務局長のスタンスは明確だった。理念は「労働組合主義」、組織は「相互信頼」、運動は「力と政策」、国際は「国際自由労連指向」。
参加組織から優秀なスタッフを集めて事務局体制を強化。政策課題を「経済政策」「雇用」「物価」「税制」の4つに絞り、対政府交渉、大衆行動、政党や経済界への要請などを参加組合の共同行動として展開し、成果をあげた。

それまでの労働組合の政策要求といえば、総評が社会党に、同盟が民社党に申し入れる程度だったが、山田事務局長は与党自民党にも要請を行った。批判もあったが、「こそこそやると誤解を招く、堂々と会えばいい」と平然としていたと伝えられている。

時の首相とのパイプも構築した。1976年末に発足した福田赳夫内閣は、与野党伯仲の政治状況の中、「連帯と協調」を掲げて各界との対話を通じた政局運営をめざした。山田事務局長は1977年1月、労働4団体と政策推進労組会議が個別に首相と会談する場を設定し、サラリーマン減税、物価安定、雇用確保などを要請。以降、政労会談が定期的に開催されることになった。

労働4団体代表と福田首相との会談(1977年1月12日)出所:公益財団法人総評会館

こうした動きに対し、日本共産党系の労働組合は労働戦線統一の動きを「右翼的再編」と批判し、1974年12月「統一労組懇(統一戦線促進労働組合懇談会)」を結成した。

労働組合主義を理念に「基本構想」

「政策推進労組会議」が存在感を増す中、同盟は1978年に「民間先行による労線統一方針」を決定。79年3月には、中立労連と新産別が「統一の触媒役を果たす」ために「総連合(全国労働組合総連合)」を結成。総評も槙枝議長・富塚事務局長体制のもとで「開かれた総評」への脱皮を提起し、民間先行による統一方針を決定した。

これを受けて、1980年9月に「労働戦線統一推進会」が発足。藁科氏と山田氏が起草に当たり、全体で議論に議論を重ねて「労働戦線統一の基本構想」をまとめあげた。「労働条件の維持向上を主要目的に、経営や政党の支配介入から独立・自立した労働組合活動を行う」という「労働組合主義」に立脚し、「統一労組懇に対する毅然とした態度」と「国際自由労連との連携強化」を掲げるものであった。

直面する最大の課題は、統一労組懇への対応だった。
当時、総評官公労内では統一労組懇が反対行動を活発化させていたが、総評は、全的統一をめざす立場から「選別排除」を警戒し、同盟は統一労組懇系の「なだれ込み」を警戒していた。

そこで、「労働組合主義」を理念として高く掲げ、「労働戦線統一を右翼的再編と決めつけ教条的な誹謗、妨害を計ろうとする団体、組織などに対しては、毅然と対処していかなければならない」と、実名を挙げて明記した。

この「基本構想」にもとづき、1982年に「全民労協(全日本労働組合協議会)」(41単産、425万人)が結成され、その実績をもって1987年11月、「民間連合(全日本民間労働組合連合会)」(55単産、555万人)が発足した。

「右か左かではなく、前へ」

仕上げは官民統一。「進路と役割の承認、国際自由労連加盟、統一労組懇への対応」をテーマに、民間連合・総評官公労・友愛会全官公との対話がスタート。山田事務局長は、全繊同盟でのオルグの経験を活かして、官民統一に奮闘したと伝えられている。

眞柄栄吉総評事務局長(当時)は「右か左かではなく、前へ」と決断し、「進路と役割の承認、国際自由労連加盟」とあわせて「総評は統一労組懇を認知していない。毅然たる態度をとる」との見解を表明。統一労組懇は、自ら統一不参加を表明し、「独自のナショナルセンターをつくる」と総評を脱退した。

「労働界の統一に関する基本構想」が合意され、1989年までの官民統一が決定。
1989年11月21日、幾多の苦難を乗り越え、日本を代表するナショナルセンター、「連合(日本労働組合総連合)」(78組織、800万人)が誕生したのである。

藁科満治初代会長代行の言葉通り、「連合結成は、内外の激しい環境変化という『天の時』、統一に向けての水面上・水面下での躍動という『地の利』に加えて、『人の和』が整って成就した」といえるだろう。

(執筆:落合けい)

◆参考文献・資料
ものがたり戦後労働運動史刊行委員会編(2000)『ものがたり戦後労働運動史Ⅷ—労働戦線統一にはじまりから スト権ストへ』教育文化協会/第一書林

ものがたり戦後労働運動史刊行委員会編(2000)『ものがたり戦後労働運動史Ⅸ—政策推進労組会議の成立から統一準備会へ』教育文化協会/第一書林

髙木郁朗(2018)『ものがたり現代労働運動史1 1989〜1993—世界と日本の激動の中で』)教育文化協会/明石書店

髙木郁朗(2020)『ものがたり現代労働運動史2 1993〜1999—失われた10年の中で』)教育文化協会/明石書店

久谷與四郎(2015)『働く人を守る—「連合」25年の実像と役割』日本リーダーズ協会

藁科光治(1992)『連合築城—労働戦線統一はなぜ成功したか』日本評論社

『語り継ぐ 連合運動の原点』(日本労働組合総連合会発行、2014年)

『月刊連合』2014年11月号

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