ユニオンヒストリー

[3]世界を変えた国際連帯行動
①ポーランド自主管理労組「連帯」への支援

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シリーズ第2回では、基礎知識として、ICFTU(国際自由労連)やOECD-TUAC(労働組合諮問委員会)、GUFs(国際産業別労働組合組織)、ILO(国際労働機関)など、国際労働運動の多彩なプレイヤーとその理念を紹介したが、第3回は、そうしたプレイヤーと連携して日本の労働組合が全力で取り組んだ「国際連帯行動」に迫りたい。
「国際連帯」は、国境を超えて働く者たちが力を合わせ、社会課題を解決し、平和でより良い社会をつくっていこうという、国際労働運動の根幹となる考え方だ。 連合結成前夜の1980年代には、ICFTUを軸に様々な国際連帯行動が取り組まれたが、ここでは、特に日本の労働組合が重要な役割を果たした、①ポーランドの自主管理労働組合「連帯」への支援、②南アフリカのアパルトヘイトを撲滅する取り組み、③ミャンマー(ビルマ)の民主化支援を連載で取り上げたい。

生澤 千裕(いくさわ ちひろ)
日本ILO協議会理事、JILAFプロジェクトアドバイザー
1979年同盟(国際局)に入局し、同年5月に東京で開催された「先進国労組指導者会議(G7レイバーサミット)」に対応。1987年民間連合国際局副部長、1989年連合国際局部長。生活福祉局、政治政策局、政治局、企画局等を経て、2005年連合国際局長、2007年総合国際局長(常任中央執行委員)、2011年総合企画局長(常任中央執行委員)。2013年10月に退任し、2017年10月まで連合参与を務める。現在、日本ILO協議会(特定非営利活動法人 ILO活動推進日本協議会)理事、国際労働財団(JILAF)プロジェクトアドバイザー。

ポーランドの自主管理労組「連帯」とワレサ・フィーバー

1981年5月、新築されたばかりの総評会館(現・連合会館/東京・神田駿河台)は、熱気と興奮に包まれた。来日したポーランドの自主管理労組「連帯」(ソリダルノスチ)のワレサ議長ら代表団を、各界の支援者が出迎え、マスメディアも多数取材に詰めかけた。リアルタイムで「ワレサ・フィーバー」を体験した世代は、今もその光景が目に焼き付いていることだろう。

「連帯」とは、1980年9月17日、ポーランドの統一労働者党(共産党の流れを汲むスターリン主義政党)政権がとった食料価格引き上げ等への抗議が発端となって結成された労働組合だ。
当時、共産主義国にも労働組合は存在したが、それは一党独裁体制に組み込まれ、政党の支配・管理下におかれていた。「連帯」は、そういう東欧共産主義国において、初めて政権党から独立した自主管理労組として活動を始めた組織であり、国際社会の大きな注目を集めた。

ワレサ議長(中央)が来日(1981年)
出所:全日本労働総同盟「明日へ―同盟23年の歩み」
来日中のワレサ議長(手前から2人目)(1981年)
出所:公益財団法人総評会館 総評退職者の会


来日して大歓迎を受けたワレサ氏は、ポーランド北部の都市グダンスクの造船所で働く電気工だったが、政権との交渉を求めてストライキを決行。「連帯」を結成して初代議長に就任し、戒厳令下では何度も検挙・拘束されながらも粘り強く「民主化」運動を進め、のちにポーランド大統領となり、ノーベル平和賞も受賞した。

生澤千裕日本ILO協議会理事は、「連帯」の意義をこう語る。

 当時、ポーランドでは、ソ連のスターリン主義の影響を受けた統一労働者党が政権をとっていました。労働組合は、党の支配下に置かれ、政権批判は許されなかった。 しかし、ある労働者の解雇をめぐり、さらには労働者の生活を困窮させる食料物価引き上げに抗議して、グダンスクの造船所でストライキが発生しました。その指揮を執ったのがワレサ氏でした。ストライキはまたたくまにグダンスクから全土へと広がり、ワレサ・ストライキ委員会委員長は政府に対して、賃上げのみならず言論の自由や政府から完全に独立した労働組合の設立許可などを含む21箇条の要求を突きつけたのです。統一労働者党政権は全国的に広がったこの動きを無視することはできず、労働者の要求を受け入れて、1980年8月末に政労間で初の「政労合意」が結ばれました。そしてその半月後には、「党の管理・支配は受けない」という意味での「自主管理」労組「連帯」が結成され、ワレサ氏が議長に就任しました。自主管理労組「連帯」は急速に全土に勢力を拡大し、結成直後において既に300万人の組合員を数えるに至ったのです。

 しかし、1981年12月、統一労働者党のヤルゼルスキ政権は、「連帯」の影響力の強まりとソ連による軍事介入の可能性の高まりに直面して、戒厳令を発します。そして、ワレサ議長をはじめ、1万名を超える活動家が逮捕され、「連帯」は非合法化されたのです。

 これに対し、ICFTU(国際自由労連)は、「連帯」支援を呼びかけ、大々的な取り組みを展開し、ILOなど国際会議の場でも発言を活発化させていきました。

 「連帯」の運動は、東欧諸国の共産主義独裁体制を揺さぶり、その民主化やソ連におけるペレストロイカ運動への道筋を切り拓くものとなりました。

 そして、その10年越しの苦難の運動を全面的に支え続けたのは、ICFTUを中心とする国際労働運動であり、連合結成前夜の日本の労働組合も大きな役割を果たしたんです。

総評、同盟ともに物心両面の支援活動を展開

1982年1月30日、ポーランド「連帯」支援集会が世界で一斉に開かれた。
ICFTU-LCはそのトップを切って、東京で支援集会を開催(1982年)
出所:ICFTU日本加盟組織連絡協議会(ICFTU-LC)

日本の労働組合の取り組みは、どういうものだったのか。

 「連帯」が結成された当時、日本のナショナルセンターは4団体に分立していましたが、総評や同盟は、ともに物心両面の支援を行いました。 1980年9月には、同盟の田中良一書記長がワルシャワを訪問。同年11月には総評の富塚三夫事務局長が専門家とともにポーランドを訪れ、ワレサ議長らと会談。富塚事務局長は「連帯」との緊密な関係構築に向けて、様々な支援を行う準備があることを表明し、翌1981年5月に「連帯」のワレサ議長と代表団を日本に招待したんです。代表団は、日本の労働4団体、国会議員、文化人などと交流を深め、マスメディアはその「ワレサ・フィーバー」の様子を大きく報道しました。

 しかし、「連帯」の存在感に危機感を抱いたヤルゼルスキ政権は、「連帯」を非合法化し、ワレサ議長も拘束されてしまいます。
同盟はすでにICFTUに加盟していましたから、ICFTUとともに組織を挙げてのカンパ活動などに取り組むとともに、大規模な抗議活動を展開しました。

 同盟の活動記録を見ると、1980年8月にポーランド労働者のスト支援の声明を発表し、1981年5月にワレサ議長と会談。1982年1月にはICFTU日本加盟組織連絡協議会(ICFTU-LC)としてポーランド連帯支援集会を開催し、決議採択・デモ行進。同年の同盟大会で「連帯」支援に関する決議を採択、1985年12月にポーランド連帯支援緊急集会、1986年11月には「ポーランドの労働組合権回復を求める集い」を開催したことなどが記されています。また、別の記録(大原社研日本労働年鑑第54集)には、同盟がICFTU本部の要請に応えて1万米ドルを支援金として支出したことや、ポーランド代理大使に対し「連帯」指導者の即時釈放・戒厳令の即時停止などの申し入れを行ったことなども記載されています。

 総評は、ICFTUに未加盟でしたが、「連帯フランス協議会」(パリ)や、「連帯在外調整事務所」(ブリュッセル)を通じて精力的に支援活動を続けました。 特にワレサ議長の訪日を実現させた富塚事務局長は、全身全霊を捧げるほど熱心に支援に取り組まれ、『ワレサの挑戦—人間がよくなる社会をめざして』(平原社、1981年刊)という本も出されています。

 背景には、総評の国際活動の方針変更もあったと思います。総評は、「国際自由労連との友好関係を保つ」とともに、中国、ソ連、東ドイツなど東欧諸国の労働組合とも定期交流していました。しかし、東西間の緊張緩和や国際政治の多極化が進む中で、1978年「欧米先進資本主義国労働組合との交流強化計画」を発表し、国際活動の重点を社会主義国労組との交流から先進資本主義国労組との連携へと拡大し、ヨーロッパ事務所開設、TUAC加盟、東京レイバー・サミットへの参加などを矢継ぎ早に実施します。そういう流れがあって、いち早く「連帯」の支援に動くことができたのだと思います。 当時、全ソ労評との定期交流において、総評が、ポーランドの「連帯」に対するソ連の不介入を繰り返し求めたという記録もあります。日本の労働組合としてはっきりモノを言ったことは、特筆すべきことではないでしょうか。

来日したワレサ議長を囲んでの懇談会(1981年)
出所:ICFTU日本加盟組織連絡協議会(ICFTU-LC)

「Solidarnosc」支援グッズを身につけてデモに参加

生澤さんは、「連帯」への支援を求めるデモにも参加したという。

 1982年6月のことでした。ILO総会会期中のジュネーブで、ICFTUが中心になって「連帯」支援のデモが呼びかけられ、私もその行動に参加しました。
 同盟は、カンパ活動として、「Solidarnosc(連帯の意)」の文字が入ったTシャツ、帽子、缶バッジなどの「連帯」グッズを販売していました。私はその「連帯」グッズを身につけてデモに参加したんです。 ジュネーブの大通りをみんなで手をつないで、声を上げながら歩いたんですが、「連帯」の活動家も参加していて、これが国際連帯行動なんだと胸が熱くなりました。

 ただ、労働組合の力だけでは、ここまでの運動はできなかったと思います。 特に大きな力になってくれたのは、ワルシャワ大学で学び、ポーランドの民主化運動や「連帯」運動に参加していた梅田芳穂さんです。日本の労働組合は、ポーランド語が堪能な梅田さんのような社会運動家との関係を保ちながら、活動を展開したということも知っておいてほしいと思います。

Solidarnosc支援グッズの帽子<生澤氏提供>
Solidarnosc支援グッズのコイン
<連合フェアワーク推進局・滝沢次長提供>

ポーランド「連帯」への支援が世界を動かすことに

「月刊連合」1988年11月号の「国際情報TELEX」には、「ICFTUのバンダーベーケン書記長らが、ポーランドのヤルゼルスキ将軍に書簡を送り、ICFTU加盟組織である『連帯』の非合法化を解除するよう求めた」という記事が掲載されているが、「連帯」は、非合法化された中でも国民の支持を広げていった。そして1989年2月、ヤルゼルスキ政権と「連帯」や他の民主化勢力との円卓会議が開催され、自由選挙の実施が合意された。
「月刊連合」1989年6月号は、「再合法化を勝ち取った「連帯」労組—注目されるポーランドの民主化の流れ」という見出しで、ポーランド政府と「連帯」が、①「連帯」の合法化、②上院議会の復活、③直接選挙による大統領選出などに合意したことを伝えている。

1989年6月、東欧で初めての自由選挙がポーランドで実施され、ワレサ議長率いる「連帯」勢力が圧勝し、8月には統一労働者党も参加する連立政権が発足。新政権は、共産主義やスターリン主義に基づいた憲法を改正し、国名を「ポーランド共和国」と改称、1990年9月に行われた大統領選挙では、ワレサ議長が当選し、大統領に就任した。

この10年にわたるポーランド民主化運動支援を生澤さんはこう振り返る。

 ポーランドの「連帯」支援という国際連帯行動は、1989年の東欧革命(東ヨーロッパ社会主義諸国で一斉に起こった、市場経済導入、複数政党制による議会制度の導入などの民主化を実現させた変革)という大きな社会変革につながりました。 この歴史的転換において、国際労働運動が果たした役割は非常に大きく、その中でも日本の労働組合は、国際連帯行動の意義を重視し、最大限の支援を行ったんです。

 1980年代に、日本の労働組合は何万ドルものカンパを集めただけでなく、リーダーが現地に足を運んで当事者と意見を交換し、日本の働く人たちに支援を呼びかけた。だから、なぜ「連帯」を支援するのか、そのメッセージにはすごく説得力がありました。それは東欧の民主化につながっただけでなく、国際労働運動における日本の労働組合に対する信頼につながり、今日の連合への信頼の土台ともなったのだと思います。

次回は南アフリカのアパルトヘイトを撲滅する取り組みを取り上げたい。

(次回に続く)

(執筆:落合けい)

〈参考文献・サイト〉
※『総評40年の歴史』
※『総評結成40年 かく闘い、かく歩む 1950〜1989』(公益財団法人総評会館 総評退職者の会)
※『ものがたり 戦後労働運動史Ⅸ』(教育文化協会) ※月刊誌『連合』

【関連記事】

[1]連合結成とICFTU加盟問題〈前編〉 | RENGO ONLINE
[2]国際労働運動のプレイヤー〜その成り立ちと理念[前編] | RENGO ONLINE

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