シリーズ第14回は、2019年からフード連合会長を務める伊藤敏行連合副会長にインタビュー。出身は、兵庫県西宮市に本部を置く大関労働組合。同労組の役員であった1995年1月17日、阪神・淡路大震災に被災。労働組合の助け合いが身に染みる経験を経て、長く労働運動の世界に。今年1月の能登半島地震では、連合「女性・子どもプロジェクト」の要請を受けて被災地の児童クラブにお菓子を贈呈。企業の枠を超えて労働組合だからこそできることを追求するリーダーの素顔に迫ります。
伊藤 敏行(いとう としゆき) 連合副会長・フード連合会長
1988年大関酒造 (現:大関) 株式会社入社。1991年大関酒造 (現:大関) 労働組合大阪支部神戸分会長、1994年大関労働組合中央執行委員、1996年、同中央書記長、1998年同中央執行委員長を歴任。2000年食品連合(現:フード連合) 兵庫地区協議会議長、2001年清酒産業労働組合連合会会長等を経て、2008年フード連合中央執行委員兼中部関西ブロック局長。2019年フード連合会長、連合副会長に就任。
今こそ、「食の安全・安心」を守る公正な取引関係の構築を
—労働運動を始めたきっかけは?
出身は大阪の堺です。1988年に大学を卒業して大関酒造株式会社に入社しました。本社は兵庫県西宮市ですが、私は首都圏の営業部に配属され、3年間、営業マンとして埼玉県北西部を担当しました。
4年目の春に神戸支店に転勤になりましたが、同じ課に大関労働組合の本部副委員長がいて、「神戸分会の次期分会長を頼む」と言われたんです。当時、私は26歳。「そういうのはかないませんなあ」とお断りしたつもりが、「心配せんでええ。俺がおるから大丈夫や」と…。
さらに巡り合わせで、大会議長も引き受けることに。シャンシャンで終わると言われていたのに執行部に対する批判も含めいろんな意見が出て、必死で仕切っていたら、それが評価されました。翌年の結成30周年大会も「大事な記念大会だから議長頼んだよ」と指名され、副委員長の背中を追いかけるように労働組合に足を踏み入れました。
大関労働組合 支部長時代(下段向かって右から二人目)
—酒造会社に入ったのは?
就活がちょうど円高不況の時でした。今、38年ぶりの円安水準なんて言われていますが、1985年に「プラザ合意」1があって、1ドル=240円前後だった為替相場が、翌1986年には1ドル=150円台に。輸出関連産業は厳しい状況になり採用も少なかった。内需型産業の食品関係を中心に就職活動をした結果、採用されたのが大関でした。
分会長になってまもなく、労働組合は、機構改革で西日本と東日本の2つの支部に再編され、神戸分会は西日本支部所属になりましたが、支部の書記長、委員長が次々と管理職に転出し、トコロテン式に私が支部の役員に。1994年に西日本支部長兼本部中央執行委員になりましたが、翌1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きました。
地域の仲間、産業の仲間に助けられ
—被害状況は?
今も、あの時の神戸の光景は忘れられません。
私の自宅は大阪で被害はなかったのですが、発災当日から、西日本支部長として安否確認や被害状況の調査に奔走しました。
大関の本社・工場は西宮にあり、組合員も阪神間在住者が圧倒的に多かった。
神戸支店は機能停止。本社工場に隣接する組合事務所は倒壊し、酒蔵も被害を受けました。本社はたまたま建替え工事中で、仮事務所は無事だったので、組合はその一角を借りて組合員の支援や対会社交渉にあたりました。
発災後、真っ先に訪ねてきてくれたのは、兵庫地区協の議長、副議長でした。互いに無事を確認しあって、本当に良かったと…。地域の仲間、産別の仲間、連合の仲間、いろんな人に助けられました。
組合員の意識も変わりました。1990年代には、組合がストライキを構えて交渉することはほとんどなくなり、闘争資金を組合員に還元すべきとの声も出ていたんですが、その十分な資金があったからこそ、被災組合員に迅速な支援ができた。組合員も、労働組合は「頼りになる存在」だと思ってくれるようになりました。
実は、私自身も、震災に遭うまでは、産別や地域の活動に意味があるのかと思っていたのですが、地域の労働組合のつながり、産別や連合の大切さを、身を持って知りました。この経験があったからこそ、こんなに長く労働運動を続けてこられたのだと思います。
パワステ・オートマの営業車を要求
—震災の翌年に中央書記長に就任されました。
支部長時代から、取り組んだのが営業車の改善です。
当時は、重ステのマニュアル車。疲労軽減のためにパワステのオートマ車にしてほしいという強い要望があって、会社と粘り強く交渉し、実現させました。
書記長時代の思い出は、結成35周年の記念旅行。組合員とその家族を対象に北海道、シンガポール、ラスベガスの3コースのツアーを組みました。
書記長は「引率」だからとすべてに参加しましたが、シンガポールから帰国した翌日にラスベガスに出発というハードスケジュール。でも、組合員といろいろ話ができましたし、家族にも喜んでもらえた。楽しい思い出です。
営業時代の地元のお祭りでお酒を販売
本当に辞めたくない人間は辞めさせない
—そして、1998年に本部委員長に…。
日本経済は「失われた20年」と言われるデフレに向かい始めていました。健康志向もあってお酒全体の消費量が減り、ワインや焼酎など日本酒以外の選択肢も増えていた。日本酒業界はジリ貧で、2003年に会社から合理化提案(希望退職)を受ける事態になりました。
会社には、「本当に辞めたくない人間は辞めさせない」と約束させ、「個人面談シート」を作成して不適切な発言にはストップをかけました。できる限りの対応をしましたが、結果的に管理職は守れなかった。つらかったです。
委員長時代、フード連合兵庫地区協議長、清酒労連会長、連合兵庫の副会長などを兼任しました。震災で、頼りになるのは地域の仲間であり、普段のコミュニケーションが大事だと痛感しましたから。
—そして、フード連合へ。
33歳で委員長になって10年。次にバトンタッチをと考えていた時、フード連合中部関西ブロックの局長にという話をいただいて、引き受けました。「なんでも屋」なので、中小地場組合の労使交渉が難航したときは一緒に交渉に入ったり、組織拡大であちこち回ったりしました。
11年務めて、2019年にフード連合会長に。東京に単身赴任し、バタバタと引き継ぎをして、さあこれからという矢先、新型コロナのパンデミックが起きました。家庭用食品は需要が拡大しましたが、酒類や飲食店関係は営業自粛で非常に厳しい状況になりました。
—フード連合会長としての取り組みは?
フード連合は、結成以来、食の安心・安全を担う食品関連労働者の地位向上を目標に掲げてきました。
食品関連企業は、身近な商品を生産しているので一般消費者の知名度は高いんですが、実は企業規模は小さい。約300の加盟組合のうち8割は中小企業で、労働条件も低い。
長いデフレ下で食品の価格が据え置かれてきたことが、労働条件の低さにつながっていることは否めません。ここ数年、連合の取り組みを通じて、価格転嫁や価格改定への理解が広がっていますが、この流れをもっと確かなものにしたいと思います。
また日本の食品の品質の高さは世界に再認識されていて、日本酒も海外で人気です。
世界的な消費拡大に向けた取り組みも進めていきたいと思います。
「尊敬する人はエッセンシャルワーカー」
—趣味や休日に過ごし方は?
子どもが少年野球をやっていて、審判員の資格を取りました。やりがいがあって、子どもが卒団した後も、東京に来るまでずっと審判員をやっていました。
今は、ラジオを聴きながらのウォーキングを趣味にしています。自宅近くの公園や寺社をまわるほか、足を伸ばして、横浜、横須賀や、川越、奥秩父の長瀞にも。
もう1つ、単身赴任して始めたのが料理です。コロナ禍で外食もままならず、美味しくお酒を飲むための料理を自分でつくるようになりました。マイブームはポテトサラダ。奥が深い。冷蔵庫には、きんぴらごぼうなどの作り置きも常備しています。
第32回泉州地区王座決定戦の審判員
—好きな映画や本は?
映画といえば、『男はつらいよ』(渥美清主演・山田洋次監督)。東京に来て葛飾柴又の帝釈天にも行ってきました。最近、面白かったのは、『九十歳。何がめでたい』(草笛光子主演・前田哲監督)。佐藤愛子さんのベストセラー・エッセイが原作ですが、草笛さんがすごく魅力的で楽しめました。好きな小説家は重松清さんです。
—尊敬している人は?
コロナ禍でステイホームが求められましたが、そんな中でも、医療・介護やインフラ、食品、流通など感染リスクにさらされながらも仕事を継続したエッセンシャルワーカーがいてくれたからこそ、国民生活が維持できました。
現場で地道に働く人たちにもっとスポットを当てたいという思いを込めて、「尊敬する人はエッセンシャルワーカー」です。
—座右の銘は?
「情けは人のためならず」。人に情けをかけることは、巡り巡って自分のためになる。これって労働運動そのものですよね。
—誰にも負けないことは?
「声の大きさ」です。おかげで大会議長に抜擢され、今があります。ただヒソヒソ話ができないのが難点ですが(笑)。
—ご自分を動物に例えると
行動しながら考えるタイプなので、クラゲに憧れます。自由気ままに生きてるように見えるけど、いざとなったら触手で刺す。不思議な存在感があってええなあと(笑)。
フード連合だからできる支援
—最近、身近に感じる話題は?
「組合役員のなり手不足」と言われますが、声をかける側が遠慮しすぎている面もあると思うんです。今、人の役に立ちたいと考える若い人は増えている。もっと思いきって声をかけようと呼びかけたいです。
—能登半島地震の支援では「女性・子どもプロジェクト」に協力されました。
被災地支援はタイミングが重要。直後は、生きるか死ぬかの救助が最優先。生き延びたら水や食料が必要ですが、避難生活が続くと、温かいものが食べたくなる。
連合の今回のプロジェクトは、現地に足を運んで地域のいろんな活動に関わっている人たちに話を聴いて、ニーズを掘り起こしました。「児童クラブにお菓子を」という要望を聴いて、加盟組合から提供を受け、ここで詰め合わせ作業を行い現地に届けました。
子どもたちが喜んでくれて、お礼のメッセージが何枚も届いて目頭が熱くなりました。
—読者にメッセージを。
「労働運動、楽しいよ」と伝えたい。行事やイベントに参加してみてください。きっと、そこから何かが始まるはずです。
- 「プラザ合意」:1985年9月、先進5カ国中央銀行総裁会議が行われ、実質的に円高ドル安への誘導に合意した。 ↩︎