「杉さま」こと、杉良太郎さんは、歌手・俳優として時代劇を中心に数々のドラマ・舞台に主演している大スターだが、その傍ら国内外でのチャリティ活動や刑務所の慰問・視察などの更生支援、被災地における支援活動、ベトナムやフィリピンでの学校設立、肝炎総合対策、特殊詐欺対策など、幅広い社会貢献活動に取り組んでいることでも知られている。
連合は、「社会の一員であることを自覚し、地域および国際社会において、平和・人権・福祉・環境・教育・安全など、広範な社会貢献活動に取り組む」(連合行動指針第7条)ことを掲げ、災害救援ボランティア、必要とする人々に善意の寄付を届ける「愛のカンパ」、労働組合の社会貢献活動を紹介する「ゆにふぁん」サイトの運営、国際労働財団(JILAF)を通じた開発途上国でのインフォーマルセクター労働者の生活改善・底上げ支援を行う「草の根支援事業」などに取り組み、最近では悪質商法撲滅に向けた政策提言も行っている。
安心してくらし、働くための大前提は「社会が平和で安定していること」を改めて痛感させられる情勢が続く中で、今、私たちに求められている社会貢献とは何か。
杉良太郎さんと芳野友子連合会長が語り合った。
「知って、肝炎プロジェクト」で連合を訪問
北野 本日は、ありがとうございます。杉さんと芳野会長は親交があると聞いていますが、きっかけは?
芳野 杉さんは、厚生労働省の「知って、肝炎プロジェクト」(肝炎総合対策国民運動)に、2012年のスタート時から関わられ、連合にも訪問していただきました。「肝炎は気づくのが遅れがちで、働き手が肝炎になると影響は大きい。検査を受けるよう連合の組合員や家族に呼びかけてほしい」との要請を受け、そのようなご縁で、神津里季生前連合会長に引き合わせていただきました。
杉 そうでしたね。芳野さんの第一印象はすごく明るい方だなと…。初めて会ったのに昔からの知り合いのような気持ちにさせてしまう。それが芳野さんのいちばんの強みであり魅力だと思います。連合会長に就任されてからも、いつも笑顔を絶やさない。そんな「旧知の友」である芳野さんのために、今日は着物で参りました。
芳野 お褒めいただきありがとうございます。お着物姿の杉さんも本当に素敵です。
杉 実は、連合とのおつきあいは古いんです。30年以上前ですが、初代連合事務局長の山田精吾さんと会食する機会がありました。私は本名が「山田」で、山田同士で意気投合しましてね。何度もお会いしていろんな話をしました。
その頃、私はベトナムの孤児の窮状を目の当たりにして、できることは何でもやろうと考えていました。山田さんご自身も子ども時代は苦労されたと聞いて、それでもこんなに活躍されている人がいるんだと、ベトナムの子どもたちを勇気づけてあげようと思ったことを覚えています。
北野 連合結成時からのご縁だったんですね。杉さんにとって労働組合はどういうイメージでしたか。
杉 連合結成前、1970年代はデモやストライキが盛んに行われていて、「労働組合=闘争」というイメージが強かったんですが、山田精吾さんに出会って印象が変わりました。「連合がめざすのは『家庭の幸せ』、子どもとともに過ごす時間を大切にできる働き方を実現したい、そのために労働組合の力を1つにして政策を実現したい」と語る山田さんのおかげで労働組合を理解し、歴代の会長・事務局長とも交流を続けてきました。
芳野さんが会長に就任されて、連合は雰囲気が変わりましたよね。なんというか包み込むような雰囲気がぐっと出てきました。メディアへの登場も増えて連合の認知度は高まっているのではないですか。
芳野 そう言っていただいて嬉しいです。でも、連合会長に就任していちばん驚いたのは、労働組合や連合の存在があまりに知られていないことでした。これではいけないと、就任以来、「待ちの姿勢」ではなくこちらから出向いて対話を求めてきました。
ようやくコロナ禍から脱しつつありますが、戦禍が拡大する国際情勢や円安の進行で物価高騰が続き、生活に不安を抱える人が増えています。連合は、47都道府県にある地方連合会を通じて、フードバンクや子ども食堂の支援、給食費無償化などの要請行動を行っているところです。今日は、どんなところにも自ら飛び込んで活動されてきた杉さんにアドバイスをいただければと思っています。
15歳で刑務所を慰問
北野 1965年に歌手デビューされましたが、社会貢献活動にはデビュー前から携わっていらっしゃると…。
杉 1960年、歌手をめざして歌謡学院に通っていた時、そこの盲目の先生に誘われて刑務所の慰問に同行したのが始まりです。私はまだ15歳で、刑務所に行くのは怖くて憂鬱でした。
でも、受刑者の人たちは涙を流しながら私の歌を聴いてくれた。刑務所って「人生劇場」のように社会のあらゆる矛盾や不条理が凝縮されている。自分の歌が少しでも励ましになればと、デビューしてからもずっと訪問を続けてきました。
1965年歌手デビュー。翌年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)開局記念番組『燃えよ剣』(原作:司馬遼太郎)の沖田総司役で俳優デビュー。NHKドラマ『文五捕物絵図』に主演して脚光を浴び、『右門捕物帖』『遠山の金さん』をはじめ1400本以上のドラマに主演。映画、舞台でも活躍。
また、デビュー前から続けている刑務所慰問・視察、海外でのチャリティ公演や福祉施設訪問、災害被災地での炊き出し、肝炎総合対策、特殊詐欺撲滅などの社会貢献活動に献身的に取り組む。ベトナムでは、日本語学校を設立し、200人を超える孤児の里親に。
長年の福祉活動に対し2008年には芸能人初の緑綬褒章を、2009年紫綬褒章を受章。長年の海外での文化交流事業での貢献が認められ、2016年度文化功労者に。現在、法務省・特別矯正監(永久委嘱)、厚生労働省・健康行政特別参与、警察庁・特別防犯対策監(永久委嘱)を務める。
北野 現在は、法務省特別矯正監(永年)を委嘱され、活動していらっしゃいます。
杉 刑務所や少年院に何度も足を運ぶ中で、更生のためには刑務官と受刑者の関係性が重要だと思うようになりました。裁判を経て刑が確定した受刑者を預かっているのだから、これまでの人生で分からなかったことを1つでも分かるようにしてあげなければいけない。「気をつけ!」「前へ進め!」と号令をかけるだけでなく、様子がいつもと違う受刑者がいたら、それを察知して声をかけ悩みを聞いてあげなければいけない。そう考えて、刑務官のみなさんとも対話を重ねてきました。また法務行政に対しては、刑務官が本来の職務を果たせるよう処遇改善を提言してきました。
芳野 他にも警察庁特別防犯対策監として、特殊詐欺撲滅など、様々な防犯対策に力を注いでおられ、県警から所轄まで、全国を回られていますね。
杉 被害に遭われた高齢者の方に話を聴く中で、特殊詐欺は、被害金額の大きさもさることながら、被害者が自分を責め続けてしまう許しがたい犯罪であることが分かりました。家族にも言えず、泣き寝入りする被害者は少なくありません。とにかく防止が重要だと、政府やNTTに働きかけ、「ナンバー・ディスプレイ」と「ナンバー・リクエスト」の無償化(70歳以上の世帯の固定電話)を実現しました。
加害者である「かけ子」や「出し子」など実行犯の少年にも話を聴いてきました。そこで気づいたのは、愛情を十分に受けずに育ってきた子が多く、罪の意識があまりにも乏しいことでした。
北野 連合としても悪質商法問題は重要な政策課題だと考え、先日、シンポジウムを開催したところです。背景には社会の様々な歪みがあると感じますが、杉さんは日本が抱えるいちばんの課題は何だとお考えですか。
杉 大局的に言えば、教育です。私は1990年に国連ユネスコ親善大使兼識字特使を拝命しましたが、その会議で「胎児教育、幼児教育、家庭教育、学校教育、そして社会教育があってひとりの人間として育っていく。この教育を1つでもおろそかにすると、人間は真っすぐに育たない。真っすぐに生きていけない。愛情と教育が大事なんです」と訴えました。
少年院にいる子は、ほぼ100%愛情を知りません。愛について一生懸命話してもぽかんとしている。愛を知らずに育つ子が増えていて、それが少年犯罪や児童虐待の連鎖につながっている。更生支援や特殊詐欺撲滅に関わってきて、やはり日本のいちばんの課題は、人間の基礎をつくる広い意味での教育だと思っています。
謝罪と慰霊のために
北野 杉さんは海外においても、孤児の支援や学校建設などに尽力されています。なぜ国際支援にも目を向けられたのでしょう。
杉 日本は、先の戦争でアジアの多くの国々を戦禍に巻き込みました。私は、終戦時は1歳で戦争の記憶はありませんが、日本軍が多大な迷惑をかけた国の人たちに謝罪に行きたいという思いを持っていました。
最初に行ったのは韓国です。1972年、朝鮮戦争の休戦ラインである38度線の板門店で日本人として初めて兵隊の慰問を行いました。その後、中国、モンゴル、東南アジアの国々を回って、現地の人々に謝罪をし、日本人墓地に慰霊に行きました。
北野 それは政府などからの要請もあったのですか。
杉 一切ありません。すべて自分で考え行動してきました。訪問にあたっては、その国の歴史や文化、言っていいことと悪いことを学び、人々を重ねて傷つけることがないよう慎重に準備をしました。
芳野 戦争というと「被害者」の立場が強調されがちですが、杉さんは「加害者」の立場で謝罪に回られた。本当に器の大きい方だと頭が下がります。ベトナムでは日本語学校を設立されたと…。
杉 ベトナムには太平洋戦争末期に日本軍が進駐し、大飢饉で多くの方が亡くなりました。戦後も混乱が続き、ベトナム戦争が始まりました。1975年に戦争は終結しましたが、アメリカ兵が多数行方不明となった。そのご家族を支援するチャリティ公演をワシントンで開催する計画を立てたのですが、ストップがかかり、ベトナムでの開催に切り替えて準備に入りました。
実現したのは、1989年のことです。当時、ベトナムの人々はほとんど裸足で、化粧をしている女性もいなかった。慰問に訪れた孤児院の子どもたちの食事は、カビの臭いがする古米のお粥に道端で摘んだ葉っぱを入れたスープと小さな魚の干物が2枚。戦争が奪うものの大きさに涙がこぼれました。
同時にこの国は将来大きく発展するとも感じました。資源が豊富で人々は勤勉。「国づくりは人づくり。政治と経済だけでは国民はついてこない。文化でお互いを理解・尊重し、交流することが重要。文化の力で風穴を開けましょう」という私の思いに、当時の最高指導者であったドー・ム・オイさんも賛同してくださり「ベトナムは藁にもすがりたい思いだ。アジアでいちばん日本語が話せる国になりたい」と語られ、その思いに応え、文化交流は言葉からと「ヌイチュック杉良太郎日本語センター」を設立しました。その後、1995年にはアメリカが国交を正常化し、日本も含め世界中からベトナムに投資が集まることになり、その時に学んでくれた子たちが即戦力として活躍をしてくれました。今でも多くの卒業生が活躍をしてくれていて、要人の中にも「卒業生です」と声をかけてくださる方が大勢います。
北野 孤児の里親になられたのは?
杉 玩具や菓子を持って孤児院を訪ねた時、見向きもしない子どもがいました。「どうして?」と尋ねると、「お父さんとお母さんがほしい…」と。自分の未熟さに声をあげて泣きました。そして、お父さんになろうと…。
最初の里子は、そのガーという名の女の子と3人の弟です。ガーは今、日本語教師として日本とベトナムをつなぐ仕事をしています。これまで200人以上の孤児の里親になり、生活費や医療費、大学進学費用まで必要なものはすべて出してきました。
芳野 国際労働機関(ILO)が1944年に採択した「フィラデルフィア宣言」(根本原則)には「一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である」と書かれています。今も、貧困が負の連鎖を生み出し、世界各地で紛争や人権侵害が絶えない状況にありますが、根本的な解決には、杉さんがおっしゃるように未来を担う子どもたちへの教育こそが大事なのだと思います。
連合は国際労働組合総連合(ITUC)に加盟していますが、特にアジア太平洋地域においては大きな組織であり、国際連帯活動をリードしていくことが求められています。連合が1989年に設立した国際労働財団(JILAF)では、「草の根支援事業」としてアジアの7カ国でインフォーマルセクター労働者の組織化や職業訓練に取り組み、ネパールとインドでは児童労働撲滅に向けた学校運営事業も行っています。
杉 国際支援においては、巨額の費用がかかる事業は国の政策を動かすしかない。でも、そうでないものは、まず自分自身が行動を起こして、渦巻きのようにいろんな人を巻き込んでいく。本気なら必ずやり遂げる方法はあると思ってやってきました。
ただ、そのリーダーシップをとるのは命がけです。だから私は、自分を支えてくれるスタッフを大事にしようと心に決めているんです。
花も実もある人生を送りたい
芳野 素敵ですね。なぜ、そこまでできるのでしょう。
杉 人生は一度きりでしょう。ならば、小さな花でも咲かせたい。花が咲いたら実もつけたい。花も実もある人生を送りたいじゃないですか。
確かに「国」は根幹です。でも戦争の時代、弱い立場にあった国民は、国のために一生懸命働いても報われなかった。だから、連合には、一人ひとりが「生まれてきて良かった。この職業に就いて花が咲いて実もなった」と思えるようにするために行動してほしい。
芳野 労働組合の根底にあるのは「支え合い・助け合い」の精神であり、前提は「社会が平和で安定している」こと。その原点を忘れずに行動していきたいと思います。
「頑張らないでください。今は休んでください」
北野 杉さんは、東日本大震災などの被災地にもいち早く駆けつけ、救援物資の提供や炊き出しなどの活動をされてきました。
杉 困っている人がいると行動してしまうんです。「人には親切に」と教わって育ちましたから、感謝されるかどうかは関係ない。
東日本大震災の被災地で手製のカレーを配っていた時、受け取ろうとしない人がいました。施しを受けることに納得いかないのだろうと思い、腰を下ろして下からカレーの皿を差し上げました。そうしたら受け取ってくれたんです。
私は、避難所では「頑張らないでください。今は休んでください。頑張れるようになるまで私たちが頑張りますから」と声をかけます。どんなにひどい状況におかれても心がある。その心を傷つけるボランティアはやってはいけない。これは、これまでの活動を通じて私自身が教えられてきたことなんです。
芳野 学ぶことが多いです。連合も、国内外の自然災害に対し、救援ボランティア派遣や物資、カンパ金などの支援を行ってきました。東日本大震災での連合ボランティアは、半年間で延べ約3万5000人、救援カンパは約8億円が集まりました。労働組合の強みは組織力と統率力ですが、押し付けではなく被災地のニーズや状況等に寄り添う支援を心掛けてきました。
ただ、コロナ禍以降、域外からのボランティアに対する募集範囲が制限されたりするなど、行きたくても行けないという状況もあり、悩ましいところです。
杉 問題は、被災地がどんな状況なのか。押しかけたら、「助かった」と言われることも多かったりします。
「本気度とスピード感」をもってチャレンジ
北野 連合に期待されること、連合へのメッセージをいただけますか。
杉 芸能人の社会貢献活動は「売名行為」だと批判されることがありますが、私はやっぱり「自分が困った時、誰かが助けてくれる社会だったらいいな」と思うんですね。だから、お金がある人はお金を、お金がない人は時間を寄付する。お金も時間もない人はそういう活動を理解する。そうすれば、社会はきっと良くなっていく。
連合にお願いしたいのは、組合員へのアンケート調査です。特殊詐欺の実態や豪雨災害の被災状況などについて調査をすれば、どういう備えが有効か見えてくるし、政策的な対応にもつなげられます。
芳野 お話をうかがって、やはり「社会対話」が重要なんだと再認識しました。連合が信頼され頼りにされる存在になるには、限られた世界の中の自己満足的な活動ではなく、垣根を越え、多様な方たちと謙虚に対話し、理解し合うことが必要なんですね。この課題に「本気度とスピード感」をもってチャレンジしていきたいと思います。
北野 本日は貴重なお話をありがとうございました。