2023春季生活闘争の賃上げ率は30年ぶりの高い水準を記録し、回答指定日前の妥結や満額回答続出などの「異例の展開」も注目を集めた。年が明ければ2024春季生活闘争が本格的に始動するが、法政大学経営大学院の山田久教授は「今季はさらなる賃上げが必要だ」と説く。なぜ今「賃上げ」なのか、背景にはどんな情勢変化があるのか、「賃上げ」を起点に何をどう変えていけばいいのか、詳しく解説していただいた。
「連合2024春季生活闘争中央討論集会」(2023.10.30)の基調講演より構成]
山田 久(やまだひさし)
法政大学経営大学院イノベーションマネジメント研究科教授
1987年京都大学経済学部卒業、住友銀行(現三井住友銀行)入行。1993年(株)日本総合研究所に出向、調査部長兼チーフエコノミスト等を経て、2019年副理事長。2015年京都大学博士(経済学)。2023年4月より現職。専門は、マクロ経済分析、経済政策、労働経済。著書に『賃上げ立国論』(日本経済新聞出版)、『同一労働同一賃金の衝撃 「働き方改革」のカギを握る新ルール』(日本経済新聞出版)など。
30年ぶりの高い賃上げ率の背景
2023春季生活闘争の賃上げ率は、30年ぶりの高い水準となった。
背景の1つは、労使トップ間で「賃上げの必要性」に関する合意ができていたことだろう。政労使会議(2023.3.15)で経団連の十倉雅和会長は、物価上昇を考慮した積極的な対応を「率直に歓迎したい」と述べ、2023年を起点に「構造的な賃⾦引上げを実現する」(2023.3.15)とコメント。連合の芳野友子会⻑は「賃⾦も物価もGDPも安定的に上昇する経済へとステージを変えていくための環境整備の取り組みを、政労使で継続していく。23闘争は望ましい未来をつくるターニングポイントにしていかなければならない」と主張した。2024春季生活闘争は、この延長線上で新たなステージへのシフトが確実になるのかが問われることになる。
「賃上げの必要性」が共有されるに至った背景には何があるのか。
第1は、いまや日本は高賃金国ではなくなったことだ。数年前から日本の賃金は主要先進国で最低グループに位置することが広く知られるようになった。OECDの「実質賃金の国際比較」を見ると、日本は1990年からほぼ横ばいで推移し、2015年頃には韓国に抜かれている。経済が成長し、労働生産性が上がれば、賃金が上がるのが当然なのに、日本の賃金はこの30年間まったく伸びていない。[Data001]
第2は人手不足。少子高齢化・人口減少が進む中、特に現場労働の人手不足が深刻化し、賃金を上げなければ労働力を確保できない状況になっている。
第3は、インフレ・物価上昇だ。2023春闘の賃上げの流れを最終局面で強く後押ししたのは、40年ぶりの高水準となった急激な物価上昇だった。経営者の「賃金を改善する理由」をみても「物価動向、従業員の生活を支えるため」が大きく増加している。[Data002]
世界的な低コスト時代の終焉
新たなステージにシフトするには、今、私たちがどんな局面に置かれているのかを正しく理解することが重要だ。
まず、日本で賃金抑制が始まった経緯を振り返っておこう。
1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、1990年代には東欧諸国や中国がグローバル市場に本格参入。経済のグローバル化が急速に進行し、「世界最適生産」の考え方にもとづいて生産拠点は安価な労働力を持つ地域に移転された。それは「底辺への競争」とも呼ばれ、先進国では「産業の空洞化」が生じることになった。
グローバル競争が本格化してまもなく、日本ではバブル経済が崩壊。当時、日本の賃金は「世界一」高いと言われる中、企業は国際競争力強化を掲げて「コスト削減・人件費抑制策」を取り、労働組合も雇用維持を優先した。
しかし今、局面は大きく変わり、賃金抑制は困難になっている。
第1は、国際情勢の変化だ。1990年代「東西冷戦の終焉」が言われたが、ここにきて世界は再び「分断の時代」に入っている。米中の摩擦は構造的問題であり、米ロ対立も深まっている。経済活動においては、経済効率性より安全保障や事業の持続性を優先せざるを得ない。経営コストが上昇し世界的な物価上昇の要因となっている。
第2は、エネルギー問題。2000年代半ば、シェールガスの生産本格化でエネルギーは供給過剰になると言われたが、その後世界の流れは一気に「脱炭素」に向かった。再生可能エネルギーの安定供給には蓄電やスマートグリッドなどのシステム整備が必要だが、その費用は高額であり、エネルギー価格の上昇圧力は強まっている。
第3は、労働力制約・コスト高だ。世界的に人余りの時代から人手不足の時代に入っている。特に先進国では人口増加の鈍化や高学歴化を背景に、ヘルスケアや物流、製造などの現場労働力が不足。デジタル化やAI導入により、事務職では一部代替も進んでいるが、現場労働の代替はロボット技術を組み合わせても簡単なことではない。労働需給の逼迫で賃金は上昇傾向にあり、それがインフレを長引かせている。
顕在化する日本の構造問題と賃上げの必要性
1990年代はコスト削減こそが経営のカギとされたが、「コスト削減偏重経営」が長期化する中で「低賃金・低物価・低金利」が常態化し、日本では様々な弊害が生じている。
コスト安(低物価・低金利・低賃金)の環境に甘んじて前向きの投資は十分に行われず、エネルギーや産業の構造転換が遅れた。また「コスト削減」は、時代に合わない事業を延命させ、企業の事業構造の転換も遅らせてしまった。
その結果、日本の輸出競争力は大きく低下し、貿易収支が赤字になり円安が急激に進んでいる。「安いニッポン」は外国人の投資家や観光客に大人気だが、円安が続くと国内の生活水準は下がっていかざるをえない。
貿易赤字は財政赤字とも深く関係する。貿易黒字が拡大し、経常収支も大きく減れば、財政赤字が国内の貯蓄で賄えなくなり、金利に大幅な上昇圧力がかかる。日本はGDPの2倍以上の借金(国債)を抱えている。超低金利政策の転換を迫られる中、金利が1ポイント上がれば膨大な利払いが発生し、財政が悪化して社会保障費カットや増税が必要になりかねない。
1990年代とはすべてが逆転している。貿易コストもエネルギー価格も金利も上昇局面に入っている。日本の賃金(人件費コスト)はすでに先進国で最低レベルであり、人手不足を背景に賃金上昇の圧力も強まっている。
企業がコスト上昇に対応するには、2つのやり方しかない。
1つは、原材料やエネルギーなどのコスト上昇分を人件費削減で吸収する。しかし、これは、消費の落ち込み=企業の売上げ減をもたらし、経済は縮小均衡に入っていく。
もう1つは、賃金を上げ、適正に単価を上げる。賢明な経営者はこの方向に舵を切っている。賃上げで内需を拡大し、売上げを増やし、投資を増やし、事業を拡大していくという「拡大均衡」である。これは事業構造の転換を促す効果もある。[Chart001]
今、選択すべきは「賃上げ」を起点とする「拡大均衡」であり、持続的な賃上げをテコに産業構造・エネルギー構造を転換させ、貿易収支改善と財政再建の道筋をつけていくことだ。
賃金低迷の原因
賃金低迷の原因をもう少し掘り下げてみよう。
「生産性が低いから」だと言われるが、これは誤解だ。労働生産性には、実質と名目の2種類がある。「効率を上げて品質を高める」という実質労働生産性は、日本でもずっと上がってきたし、国際比較でもヨーロッパ平均より伸び率は高い。実際に現場では様々な改善が行われ、日本の製品・サービスの品質は高く評価されている。にもかかわらず賃金が上昇しないのは、価格を上げていないからだ。
低迷しているのは名目労働生産性(労働者一人あたりの利益)。賃金抑制が消費者の低価格志向を強め、「値下げ・賃下げ」の悪循環が生じた。「良いものをもっと安く」という企業努力が行われ、正当な値上げすら受け入れられない状況が生まれた。
2010年代半ば、大学の特別講義で「物価は上がるものか、下がるものか」と聞いたら、学生はほぼ全員「下がるもの」と答えた。「物価が上がる」時代を知らない世代が増え、「物価・賃金は上がらないもの」というノルム(標準的相場観)が形成され、適正に価格を上げることができない。これこそが今、賃上げを阻む最大の原因だと言える。
望ましい「ノルム」実現の条件
日本は「安いニッポン」(低コスト国)に変貌している。これ以上、「物価も賃金も上がらない」状態を続けてはいけない。「賃金や物価が緩やかに上方シフトしていく」という望ましいノルムを実現していかなければならない。
その時、注目すべき指標は「単位労働コスト※上昇率」と「価格転嫁率」だ。
単位労働コストは、足元では上昇しているが、それは労働生産性の伸びが鈍化しているからだ。生産性を引き上げて適正な上昇をめざす必要がある。
また、日本のコスト削減重視経営においては、賃金抑制だけでなく、下請取引企業へのコストダウン要請(仕入れ価格引き下げ)も広く行われてきた。「販売価格=消費者物価」「仕入れ価格=企業物価」とした時に、仕入れ価格の上昇分をどれだけ販売価格に転嫁しているかをみたのが「価格転嫁率」だ。世界各国は50〜60%だが、日本は20〜30%にとどまる。[Data004]各流通段階で適正な価格転嫁が行われることが必要だ。
望ましいノルムの実現に向けて、単位労働コスト1〜2%上昇、価格転嫁率50%となるよう、賃上げ率の目標を決め、取り組みを進めてほしい。
賃上げと生産性向上の好循環に向けて
今後、日本の労働力人口は2035年までに4%減、2050年には11%減となり、外国人労働者の受け入れも限界がある。①中期的にもっと強い形で賃金を上げ、②価格転嫁ができる状態をつくり、③労働生産性を上げる、この3点セットが必要だ。
望ましいノルム形成の場として提案したいのが、①政労使会議、②産業別・地域別会議体、③第三者委員会(合理的な賃金決定のための目安委員会)だ。政労使会議を定期的に開催し認識を共有する。産業別・地域別会議体では、特定(産業別)最賃引き上げなどを通じて中小の生産性引き上げや事業構造の転換を進める。第三者委員会は、専門的知見から合理的な賃金決定の目安を提言する。
こうした議論を前に進める上で、労働組合の役割は非常に大きい。連合総研のプロジェクトでは、労使協議をしっかり行っている企業の方が生産性が高いという結果が出ているが、賃上げはもちろん、デジタル化やダイバーシティについても、職場を知る労働組合が現場の意見を踏まえて具体的な提案をしたほうが絶対にうまくいく。
『日本ダメ論』が強まっているが、今からでもけっして遅くはない。
日本の品質力はまだまだ高い。「良いものを適正な価格」で売ることができれば、好循環の歯車が回り始める。日本の職場が誇りにしてきた、絶え間ない改善と品質向上の努力を正当に評価し、それに対する対価を得る。それは働く人たちのモチベーションを高めるともに、人材投資や設備投資にまわり、現場の生産性を向上させる。
これほど「賃上げの必要性」が問われている局面はかつてない。それは労働者・生活者のためだけではなく、企業や国の持続可能性のためでもある。
「日本を危機から救う」という使命感をもって2024春季生活闘争に臨んでほしい。
◆「連合2024春季生活闘争中央討論集会」(2023年10月30日会場・WEB同時開催)
芳野友子連合会長は「2024春季生活闘争の最大のカギは、社会全体で問題意識を共有し、持続的な賃上げを実現すること。賃上げに向けた環境整備が重要であり、価格転嫁などの取引の適正化の取り組みを強化する必要がある」と訴えた。