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「印旛沼」清水事務局長のFree Walk【8】~関東三龍の寺~

 私が1983年に千葉県公立中学校の教員として赴任したのは、「印旛沼」の周りの11市町村(当時)の150校余りを管轄する印旛地区だった。退職まで佐倉市、白井市・富里市(当時はいずれも町)、成田市、四街道市の6校で勤務したが、印旛沼の東には印東(成田市)、南には印南(佐倉市)と呼ばれる地域がある。西には印西市が広がり、千葉ニュータウンの拠点として「住みよさランキング」全国1位となっている。また、地盤が固いことから「ろうきん」も置いている世界中のデータセンターが集まる「情報城下町」とも呼ばれている。印旛地区の栄町には龍角寺(りゅうかくじ)がある。印西市(2010年の合併までは本埜村)には龍腹寺(りゅうふくじ)がある。また、成田市・富里市・八街市の東方には九十九里浜にまで及ぶ、植木・苗木の産地で日本最大の栽培面積を有する匝瑳市があり、そこには龍尾寺(りゅうびじ)がある。「関東三龍の寺」である。

:史蹟「龍角寺境内・塔址」。後方が「心礎」
右上:龍角寺の校倉作りの資料庫。明治初期の建造で、天皇の御料牧場にあったが成田空港建設に伴い移築された。
右下:現在は住職のいない「無住」となっている龍腹寺の本堂

 印旛沼には龍伝承があり、それに基づく民話として「雨を降らせた龍」が語り継がれている。昔、印旛沼の近くに良き人々が住む村があったが、ある年、ひどい干ばつに見舞われたところ、人間の姿になってよく村を訪ねては村人たちと楽しく過ごしていた印旛沼の主である龍(龍神)が、その恩返しとして雨を降らせることにした。しかし、雨を止めている大龍王(雷神)の許しを得ないまま雨を降らせたことで怒りを買い、龍は体を三つに裂かれて地上に落とされた。村人たちはその体を探し出し、頭は安食(栄町)に、腹は本埜(印西市)に、尾は大寺(匝瑳市)のそれぞれの場所に寺を建て、龍の体を納めたという言い伝えだ。 龍角寺は平城京遷都710年の前年和銅2(709)年の飛鳥時代最後の創建で、境内の三重塔の中心柱の基礎「心礎」が国の史蹟となっている。「心礎」は「不増・不滅の石」といわれ、柱が立っていた穴に溜まった水は、大雨でも日照りでも増減しなかったと言い伝えられている。
 龍腹寺は大同2(807)年、平安時代初期、弘法大師空海の弟子による創建と略縁起には書いてある。龍尾寺は最も古く斉明天皇7(661)年の飛鳥時代の開創で、龍腹寺創建の大同2(807)年に弘法大師空海も訪れ、境内にはその時掘られたという「お手堀の井戸」がある。龍角寺が創建された和銅2(709)年と天平3(731)年に、実際に全国的な大干ばつに見舞われ、天皇の命により各地で雨乞いが行われた記録が残っている。飛鳥時代の当時の村民が厳しい自然環境に、果敢に立ち向かっていく中で生まれた伝承は、2010年に栄町民が上演したミュージカル『優しい龍の物語』へと受け継がれている。

:龍腹寺本堂近くの延命地蔵尊
:龍尾寺の薬師堂

 栄町のイメージキャラクターは「龍夢(ドラム)」で、名前の「ドラ」は龍(ドラゴン)に、「ム」は町民に与えられた未来や夢(ム)に由来しているという。印旛沼を人工衛星から撮影すると、龍や龍の頭の形に似ていると言われている。
 人々は太古の時代から地震や火山爆発に加えて、台風や大雨による川の氾濫、気候や害虫による干ばつなど多くの自然災害に対峙してきた。竜神頼みの雨乞いから始まり、暦を作成し、灌漑やため池や堤防を作り、自然の驚異との闘いを積み重ねてきた。今、私たちの地球は病んで傷んでいる。12月13日、ドバイで開催されていた第28回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP28)が閉会した。これまでの化石燃料排出による地球温暖化の問題を解決するため、2015年のパリ協定で示された気温上昇を1.5度以下に抑える目標が達成できるのか問われている。
 来年2024年は「辰年🐉」…龍の眼に涙とならないことを祈る。

龍尾寺の弘法大師空海の「お手堀の井戸」。その水は洗眼に効用があるとされている。

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