エッセイ・イラスト

今どきネタ、時々昔話
第28回 EXPO2025 人生2度目の「大阪万博」

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今年も長くて暑い夏になると覚悟していたが、処暑を過ぎても各地で猛暑日が続出している。朝の情報番組で「猛暑は老化のスピードを1.4倍も早くする」という研究が紹介されていたが、それはまさにわが身に起きていることだと実感する日々だ。

さて、この夏の、個人的ないちばんのトピックは、2025大阪・関西万博に出かけたことだ。
1970年に日本万国博覧会(通称:大阪万博(EXPO’70))が開催された時、私は7歳だった。三波春夫が歌うテーマソング「世界の国からこんにちは」が日本中に流れていて、月面着陸に成功したアポロ12号が持ち帰った月の石が展示されると聞いてワクワクした。たぶん「万博行きたい!」と駄々をこねたのだろう。大阪に姉妹がいた祖母が、夏休みに私を万博に連れていってくれた。三重県の小さな町に生まれ育った私は、あまりの人の多さに圧倒され、太陽の搭とにこやかなコンパニオンのお姉さんたちのことしか記憶にない。ただ、世界にはたくさんの国があるんだということは心に刻まれたようだ。その年の誕生日に地球儀を買ってもらい、国や首都の名前を覚えたくて、くるくる回していた気がする。

半世紀で進んだ少子高齢化

日本の高度経済成長期に開催された大阪万博(EXPO’70)は、半年間で約6,422万人の入場者を集め、大盛況だった。どんな時代だったのかと調べてみたら、1970年の合計特殊出生率は人口置換水準(約2.07)を上回る2.13、出生数は約193万人、高齢化率は7.1%。2024年の数字は、それぞれ1.15、約68万人、29.3%。半世紀でこんなにも少子高齢化が進んだのかと驚かされる。当時つくられた様々な社会システムが揺らいでいるのも当然だ。

2025大阪・関西万博の招致が決まった時、社会の姿は大きく変わっているのに「夢をもう一度」という発想で国際イベントを開催しても負担のほうが大きいのでは?という思いがぬぐえなかった。だから、2度目は行くことはないと思っていた。

ところが、開幕が迫った今春、名古屋在住の友人から「万博行く?」とLINEが来た。家族が勤める会社が大屋根リングの建築に関わったとのことで「行くならチケット送るよ」という。さらに大阪に単身赴任中の知人からも「万博行く?行くならうち泊まっていいよ」と…。
でも、万博のためだけに大阪に行くのは、老化が加速している身には堪える。迷っていたら、季刊RENGOの編集担当・Oさんから「8月上旬に広島で対談を行うので予定してください」とのお達しが…。Z女子も「大阪の万博を人生で2度経験できるなんてあんまりないから行ってきなよ」と背中を押してくる。広島での取材終了後、大阪に移動して2度目の万博を体験することにした。

「エキスポ綜合労働組合」

実は行ってみようと思った理由がもう1つある。昨年の春、連合大阪OGの伍賀 偕子(ごか ともこ)さんのお話を聞く機会があった。伍賀さんは、大阪万博(EXPO’70)の時、大阪総評の新米オルグとして「エキスポ綜合労働組合」の支援にあたったのだという。
大阪総評は、開幕前から会場の建設労働者の組織化に取り組み、安全確保や労働基準の遵守などを要求して万博協会との交渉を重ねていた。そして開幕後は、オルグを派遣して会場内で働くスタッフの組織化に乗り出した。相談所を設置すると、募集時の条件と違った、不当に解雇されたという訴えが相次いだ。エキスポタクシー(電気自動車)の女性ドライバーからは、制服が1枚しか支給されない、寒い日も上着を着ると怒られると…。伍賀さんは「わずか半年間の仕事だけど、だからといって泣き寝入りさせてはいけない」と決意。そして、結成されたのが「エキスポ綜合労働組合」だ。労使交渉を求め、地方労働委員会にも訴え、時にはストライキ権も行使して待遇改善に取り組んだ。当初の組合員は113人だったが、最終的に76支部2,148人が加盟したという。組合員の多くは女性だった。伍賀さんは、半年のうち50日も会場に入り、活動を共にしたという。詳しい話は、『労働運動を切り拓く—女性たちによる闘いの軌跡』(旬報社)や近刊の『だまってへんで—伍賀偕子と仲間の歩んだ道』(MDS新聞社)などでも語られているので、ぜひ読んでみてほしい。

『だまってへんで—伍賀偕子と仲間の歩んだ道』

なぜかローカルな空気感

さて、8月上旬、私は広島での仕事を終えた後、大阪へ。単身赴任中の知人が会社を早退して同行してくれることになったので、地下鉄を乗り継いで会場の夢洲へ。
入場ゲートで1時間は並ぶと聞いていたのだが、列はまばらで、あっという間に会場入り。16時を過ぎていたが、陽射しは十分あり、視界は良好。早速、エスカレーターで大屋根リングへ。大阪市街はその日も猛暑だったが、リングの上は海風が吹いていて心地よい。全長は2キロ。ぐるっと一周したかったが、老化が加速している身ゆえ断念して、まずは知人が仕事で関わりのあった某国パビリオンへ。不思議な絵が描かれた壁が続く回廊を上っていくと、屋上はビアガーデン。夕食には早いので、予約なしで入れるコモンズ館を中心にのんびり回ることにした。
アフリカ初の女性大統領が14年にわたる内戦を終結させ、ジェンダー平等と多様性を重視した政治を進めているリベリアのブースには素敵な石のネックレスがたくさん並んでいた。どれにするか散々迷ったあげく、肩凝り持ちには重過ぎると購入は見送った。頼りにしたのは友人が送ってくれた手作りマップ。彼女の一押しは、タイムトラベル気分が味わえる、いのちパークの3分間ミストだった。

万国博覧会なのに、その空気感はなぜかとってもローカルだった。大阪の街中では外国人観光客をたくさん見かけたが、万博会場は地元関西からの来場者が多い印象だった。リピーターと思われる同年代のオバチャンたちは、便利グッズを持参していて、並んでいると話しかけてくれる。スタッフの姿がまばらなことも印象的だった。
思い起こせば、大阪万博(EXPO’70)でいちばん印象に残ったのは、コンパニオンさんたちの笑顔とミニスカートのユニフォームだった。当時、ミニスカートは世界中で大流行していて、女性解放の象徴とも言われたが、今は昔。2025万博のユニフォームのコンセプトは、エコとジェンダーレスと高機能(熱中症対策)。基本的に男女の区別がなく、誰でも着られるデザインが採用され、色合いもやさしくて会場に溶け込む感じだった。

社会は社会運動であふれている

2度目の万博。ユニフォーム1つとっても時代は変わったんだとしみじみ思ったのだが、帰りの新幹線で富永京子先生の新刊『なぜ社会は変わるのか—はじめての社会運動論』(講談社現代新書)を読み始めてハッとした。月刊連合やRENGO ONLINEで取材させていただいたご縁でお送りいただいたのだが、その帯には「世の中はひとりでに変わっていくわけではない 必ず変えた人々がいる」と書かれていた。

「胸を衝かれる」というのは、こういうことを言うのだろうか。55年後の万博で、エコやジェンダー平等やバリアフリーが重視されるようになったのは、差別に抗議し、変えようと行動した人々がいたからだ。伍賀さんや「エキスポ綜合労働組合」の組合員も社会を変えた人たちなのだ。

本のあとがきにはこう書かれていた。

…どの記事を読んでも、記事の写真にも文面にもないはずの社会運動のすがたが『視える』のだ。海外の知識人を招聘したイベントの告知の背景に、その思想を一人でも多くの人に伝えようと尽力し、渡航費や謝金を調達した人々の姿が視えた。過労死をめぐる裁判の勝訴を伝える記事に、家族を失いながらも情報収集や雇用先への原因追及を進める遺族のすがたや、それを支持する支援者や弁護土のすがたが視えたのだ。その力がなぜ備わったのかわからないまま朝ごはんを買おうと外に出ると、世界は社会運動とその成果にあふれていた。駅のバリアフリー設備、区役所の外国語表記、なぜか高層マンションができない我が家の近所。その裏には、障害者運動、外国籍の人々の過ごしやすい環境を整える支援者、居住環境を快適なものにしたい地域住民

社会は社会運動であふれている。確かにその通りだ。本には、カスハラなど労働組合が社会を変えた例も取り上げられている。社会運動論ってこんなに面白いのかと、ワクワクした。ひとりじゃなく、みんなでああだこうだ言いながら、読んでみたい本だ。私の2度目の万博体験を豊かなものにしてくれた富永京子先生に感謝!

『なぜ社会は変わるのか—はじめての社会運動論』

★落合けい(おちあい けい)
元「月刊連合」編集者、現「季刊RENGO」編集者
大学卒業後、会社勤めを経て地域ユニオンの相談員に。担当した倒産争議を支援してくれたベテランオルガナイザーと、当時の月刊連合編集長が知り合いだったというご縁で編集スタッフとなる。

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