
10月から各都道府県に順次、新しい最低賃金(最賃)が適用される。2026年度の全国平均の引き上げ額は56円と、過去最高だった前年に次ぐ高水準となった。ただ必要最低限の生活を営める水準である「リビングウェイジ」には届かず、賃上げの勢いにはやや息切れの様相も見られる。最賃を決める地方審議会で、静岡県の労働者代表を務めた連合静岡の内山千穂副事務局長に、経営側とどのような議論が行われたかを聞いた。
連合会長「賃上げノルム定着」と評価
最初に、最賃が決まるプロセスをおさらいしておこう。まず例年7月ごろ、厚生労働省の「中央最低賃金審議会」で、有識者ら公益代表と労使の代表が協議して引き上げの「目安額」(時給ベース)を示す。2026年度の目安額は、東京・神奈川など経済規模の大きい「Aランク」地域が54円、それ以外の「Bランク」「Cランク」地域が56円だった。
その後、各都道府県でも公労使3者からなる「地方最低賃金審議会」が開かれ、具体的な金額が決まる。最終的に2026年度の都道府県別最賃の全国平均額は、前年度比56円増の1177円となり、引き上げ率は5.0%だった。
一方で高市政権は6月、前政権が掲げていた「2020年代に最賃全国平均1500円を達成する」との政府目標を「遅くとも2030年代前半」とし、実質的に先延ばししたとの見方もある。連合の芳野友子会長は8月の定例記者会見で、最賃について「賃上げノルムが広く定着しつつある」と評価した上で、「政府目標に関わらず、連合として決めた最賃の方針に沿って取り組みを強化する」と述べた。
12年ぶりに目安を上回る 人口流出訴え慣習を打破
静岡県の最賃は前年度比57円増の1154円と、目安額を1円上回った。目安を上回る金額で決定したのは、実に12年ぶりだという。
連合静岡の内山さんは「前年度は同じBランクの多くの県が、目安を上回る額を獲得する中、静岡は同額に留まりました。このため今年こそ目安を超えようと、早くから対策を立てていました」と話す。
静岡県は、東が神奈川、西が愛知とAランクの県に挟まれ、特に使用者(経営者)側に「両県よりも賃金水準が低くて当たり前」という意識が強い。他県と比べて中小企業の比率が高く、最賃引き上げの影響を受けやすいこともあり「目安と同額で決まることが半ば慣習化していました」。
今年の交渉でも経営側は、人材確保のために防衛的に最賃を上回る賃上げを実施していることや、中東情勢、米国リスクなどの外的要因で、業績が不安定化する懸念などを挙げ「段階的な賃上げの必要性は否定しないが、急激な引き上げは経営の打撃になりかねない」と主張した。
これに対し労働側は、隣県との賃金格差がこれ以上広がれば、労働者の県外流出が加速しかねないと訴えた。
「東部で観光業などに就く労働者は神奈川県へ、西部の製造現場で働く契約社員や期間工は愛知県へと、1円でも高い賃金を求めて隣県に移ってしまう実態があります。人材を引き留めるには、両県に見劣りしない賃金を設定する必要があるのです」
総務省の人口動態調査によると、静岡県の総人口は2026年1月時点で前年同期に比べて3万1476人減少し、北海道に次いで全国で2番目に減少数が多かった。また県民の90%が、1年後の物価は「今より上がる」と考えているとの調査結果もあり、家計を維持するために高い賃金を求める傾向は、さらに強まるとも推測された。
「これだけ多様な産業があり気候も温暖な地域でありながら、人口減少数ワースト2位という事実は、公益代表にとって衝撃だったと思います。使用者側も人手不足に苦しむ中で、流出に歯止めを掛ける必要がある、という点においては一致していました」
労働側は「目安を上回る額を達成する」との決意のもと、最終盤で目安よりも2円高い58円の引き上げを要求。一方、使用者側は54円を提示し膠着状態に陥った。こうした中で公益代表は、目安を1円上回る57円を提示し、最終的に労働側が賛成、経営側が反対する形で決着した。
「公益代表が目安を上回る額を示したのは、前年に他県に後れを取ったという事情に加え、人口流出のデータなどによって『真剣に最賃引き上げに取り組まなければいけない』という労働側の主張が、説得力を持った結果ではないかと考えています」

「セーフティネット」の役割を強調
交渉にあたって、最賃が「セーフティネット」の機能を果たしていることも強く訴えた。
「最賃は全体的な賃金底上げの役割も果たしていますが、同時に社会の重要なセーフティネットでもあります。企業の経営状況や経済情勢とは関係なく、労働者が生きるためにはどれだけの金額が必要かを議論しなければなりません」
近年は夫婦ともに期間工やパートなど、非正規の仕事に就き時給で働くケースも相当数に上る。また2024年度の同県の調査によると、シングルマザーの4割以上がパート・アルバイトで働いており、母子世帯では年収250万円未満の世帯が全体の 43.7%を占めた。こうした調査結果からも、低賃金や不安定な就労のもとで家計を支える世帯にとって、最低賃金の引き上げが重要な意味を持つことがうかがえる。
「特にシングルマザーの生活困窮の割合は高く、子どもを育てるためダブルワーク、トリプルワークをしている人も少なくありません」
また内山さんは、労働組合のない職場で働くパート労働者から「私たちには春闘もないので、最賃の改定がなければ時給は1円も上がらない」という話を聴き、深く納得させられたという。
「組合のない職場で働く非正規の労働者は、個別の賃上げ交渉が難しい上、評価制度なども不十分で時給が上がるきっかけにも乏しい。賃上げのタイミングは、最賃の引き上げしかないのです」
今回結審した「57円増」という数字も「最賃に近い時給で働く人の暮らしを、劇的に改善するとは全く言えない」と、内山さんは強調する。
連合は各都道府県について、人間らしい必要最低限の生活に必要な賃金を時給ベースで示した「リビングウェイジ」を算出している。2025年の静岡県のリビングウェイジは1180円で、10月の改定で最賃が1154円に上がっても、26円届かない計算だ。また2025年以降も物価は上昇し続けている。
「リビングウェイジで週40時間働いても、年収ベースでは300万に届かず、生活と仕事の好循環を回せる、人間らしい暮らしができる水準とは言い難い。ましてや現在の最賃はリビングウェイジにすら届かず、当然ながら生活は苦しくなってしまいます」
参考資料
2025都道府県別リビングウェイジと2025地域別最低賃金との比較(PDF)
価格転嫁や世論形成 残された課題は多い
連合静岡としては、セーフティネットを確保するためにも、来年度以降も引き続き最賃の引き上げを求めていく方針だ。
また正社員らすべての人に「最賃は社会のセーフティネットである」という認識を持ってほしい、とも考えている。
「最賃を『どこかの誰かの時給』ととらえるのではなく、自分がもしその額で生活したらどうなるか、という想像力を働かせてほしい。誰もが生活に必要な賃金を確保できる社会を実現しなければ、生活に困窮する人は困窮なまま抜け出せなくなってしまいます」
一方で、静岡県は前述したように、中小企業の割合が高く最賃の影響を受けやすい傾向がある。最賃の改定に伴い、時給が最賃を下回ってしまう労働者の割合を示す「影響率」は、静岡県では2025年度は 29.8%だったが、26年度の改定後は30.7%に上昇する見通しだ。こうした中、中小企業が着実に賃上げを実施するには、人件費などを価格に転嫁し原資を確保することの重要性も高まっている。
しかし静岡県が県内企業に対して2025年に実施した調査では、コストの7割以上を価格転嫁できたと回答した企業は全体の33.4%に留まる一方、「全くできていない」と回答した企業の割合も15.7%に上った。このため「労働側としても、各職場での労使交渉などを通じて、経営側に価格転嫁に応じるよう求めていきます」と話した。
企業が限られたリソースを人への投資に回すには、公的な助成金や補助金を活用することも一つの方策だ。ただ「経営者からは『審査があまりにも厳格で、申請しても認められない』といった嘆きも聞かれます」と指摘する。
「税金を原資とする助成金や補助金の審査が、ある程度厳しいことは理解できます。ただせっかく制度がある以上、活用しやすい仕組みでもあってほしい。それによって経営が好循環に入れば、巡り巡って労働者にも、賃金という形で返ってくると思います」
(文:有馬 知子)
