エッセイ・イラスト

今どきネタ、時々昔話
第23回 3月に想う。

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はっきり言ってくれてほんとにうれしい!

3月9日、日曜の昼下がり、リズミカルなLINEの着信音が響いた。このコラムに登場したこともある知人からだ。今年還暦の働き女子だが、定年退職するつもりが、関西の事業所への異動辞令(所長職)が出て、4月から単身赴任することは聞いていた。
LINEを開いたら、「連合・芳野会長 今国会で選択的夫婦別姓の実現を 自民党大会で訴え」というネットニュースのスクショに続いて、「別姓、私も大賛成! 早くやってほしい!」と書かれていた。
彼女は、30代で職場の同僚と結婚後、旧姓を通称使用して働き続けてきたのだが、最近その限界を感じる場面が増えているらしい。
「関西への異動の公示、わざわざ戸籍名で掲示されたんだよ。長年、○○(旧姓)として働いててもこんなことされるし、困るのはパスポート。海外出張の時、めんどくさすぎ。女性の海外進出、進まないよ」と憤り、「でも、芳野会長がはっきり言ってくれてほんとにうれしい!」と連絡をくれたのだ。
ネットニュースのコメント欄をチェックすると、中北浩爾先生(中央大学教授)がまっとうに評価されている以外は、お決まりの否定的な書き込みばかり。でも、書き込みはしないけれど、彼女のように芳野会長のホンキの発言に勇気づけられた人はいっぱいいるに違いないと思った。

先人の教訓は大事にしなければ

3月11日は東日本大震災から14年。様々な報道に当時の記憶がよみがえる。
『月刊連合』は、直ちに企画を差し替え、9ヵ月にわたって震災特集を組んだが、その編集担当だったMさん(現・連合中央オルガナイザー)から久しぶりに連絡をいただいた。「今年も3.11が来ると思ったら、いろいろ思い出して…」という懐かしい声。怒濤の日々をねぎらいあい、被災地に心を寄せた。

私は紀伊半島南部の尾鷲市(三重県)の出身だが、実は、私の母は、子どもの頃、大津波で自宅を2度も流されるという経験をしている。海の底があらわになるほどの引き波を見て、必死で走って逃げた高台から、家々が津波にのまれていくのを目の当たりにしたそうだ。
母が被災したのは、1944年12月の昭和東南海地震と1946年12月の昭和南海地震。
いずれもマグニチュード8クラスの大地震で、震源に近い紀伊半島の海沿いには津波が押し寄せた。しかし、終戦前後の混乱期であり、報道が統制されて支援は届きにくかったようだ。戦後復興の中で産業や生活が再建されていったのだと思うが、私の知る限り、地元で震災の記憶を語り継ぐようなイベントは何もなかった。

ただし、母からは耳にタコができるほど教訓を叩き込まれた。
①地震が来たらすぐ高台へ。モノを取りに戻った人は逃げ遅れた。命あってこそ。
②どこにいても避難ルートを確認。暗闇でも逃げられるよう床にモノをおかない。
③食事は食べられる時にしっかり食べる。好きなものから先に食べる。
母は、当時小学校低学年。大事に取っておいた干しいもを津波で流されたのだという。私や妹も、孫のZ女子&男子も、正直「聞き飽きた」と思っていたのだが、東日本大震災の大津波を見て先人の教訓は大事にしなければと反省した。そして、今さらながら、生きているうちにもっと話を聞いておけばよかったと思う。

消えた花粉症

さて、3月といえば、花粉症である。私は約20年前に発症した。つらかったのは、卒入セレモニーだ。Z男子の小学校の卒業式は、目が充血し、鼻水が流れ続けるという最悪のコンディションで参加。くしゃみをこらえるのに必死だったのだが、ママ友からは「感動して大泣きしている人」に見えたらしい。
大失敗したのは、Z女子の高校の卒業式だ。表彰を受けるというので、よく効くという薬を飲んで参加したが、式が始まってまもなく猛烈な眠気に襲われた。身体が大きく揺れて目が覚めたら、壇上から降りてくるZ女子と目が合った。あとで「ママ、寝てたでしょ。信じられない!」ときつくお叱りを受けた。

ところがである。この原稿を書いている3月13日現在、私に花粉症の症状はほとんどない。実は昨春もかなりの軽症だったのだが、何かの間違いかもしれないと思い、もう1年様子を見ることにしたが、今年も軽症化している。何があったのか。

2年前の2023年3月、『月刊連合』終刊号と『季刊RENGO』創刊号の作業を終え、ホッと一息と思った矢先、花粉症が劇症化した。鼻水、くしゃみがおさまらず、半日でティッシュ1箱を使い切る状態。例年は眼科で目薬と抗ヒスタミン薬を処方してもらい、市販の鼻炎カプセルを併用しながらしのいでいたが、症状は悪化の一途を辿った。
あまりにつらくて耳鼻咽喉科を受診。通常の薬のほか漢方薬も処方してもらい、さらにヒスタグロビン注射を勧められた。保険適用で重大な副作用はなく、1週間おきに数回注射しておくと、翌年から症状が軽くなるという。藁にもすがる気持ちで注射を打つことにした。花粉症の症状は軽減されたが、3回目のヒスタグロビン注射を終えた頃から、身体がダル重で脇腹や背中に鈍い痛みを感じるようになった。
4月初めに高熱が出て、念のため近くの総合病院に行くと肝機能関係の数字が異常に悪く即入院。当時はコロナ禍で家族との面会も禁止。完全絶食・24時間点滴で様々な検査を受け、最終的に花粉症で処方された漢方薬による薬剤性肝機能障害と診断され、更年期障害の薬やサプリの服薬もすべて中止。結果、改善が見られ、2週間で退院することができた。

そんなわけで、このコラムの初回は病室で書いた。医師から「安静」を言い渡されたが、ネタを考えることはできる。しかも、家事から解放され時間はたっぷりある。病室にPCとWi-Fiを持ち込み、休み休み何本かの原稿を書くことができたのだった。
退院後、心配だったのは、HRT(ホルモン補充療法)で軽減されていた更年期障害が一気に出てくるのでないかということだった。案の定、夏が始まる頃からいろんな症状に悩まされることになった。

まず、手指がこわばり、両手の薬指がバネ指になった。近くの整形外科でリウマチ検査を受けたが陰性。医師から「年齢によるものなので、もっと酷くなったらまた来て」と突き放された。しかし、夜眠れないほど違和感があり、キーボードを打つのもつらい。ネット検索で、指の付け根にステロイド注射を打つ治療法を見つけ、すぐに予約を入れた。注射はメチャ痛かったが、こわばりはウソのように消えた。

『月刊連合』は、2006年10月号で「労組と更年期」という特集を組んでいる。
リードには「均等法から20年、更年期を越えて働きつづける女性が増えている。一方で、更年期障害に苦しみ離職する女性も多く、『更年期定年』という言葉がささやかれることもある。長年働いてきた職場を、定年を前に去らざるをえないほどのつらさを、周囲はどうフォローしていけばいいのか? もっとできることがあるはずだ」と書かれている。

編集担当のIさんが、身近な女性役職員が重い更年期障害で退職を余儀なくされたことを知って企画したもので、体験者のOG2人と女性医師にインタビューしている。OGは「働きやすい職場の観点から対応すべき問題。働く女性の更年期対策が進めば、私のように辞めることなく、定年まで働きつづけられる女性はもっと増えるに違いない」と語っている。
当時44歳だった私は、この特集で更年期障害は対処が可能だと知り、数年後に気になる症状が出るとすぐに婦人科を受診した。最初は漢方薬を処方してもらったのだが、肝機能が落ちてしまい、HRT(ホルモン補充療法)に切り替えた。イライラや疲労感が消えて仕事や子育てに支障を来さずにすんだのだが、またもや漢方薬で肝機能障害となり、HRTも終了。次のステージ(老年期!)に進むことになったのだが、花粉症が消えるというオマケがついた。

3月8日の国際女性デーは、制定50年ということで注目され、メディアでも様々な特集が組まれた。「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」の課題として、更年期や生理の問題も正面から取り上げられていた。少し前に「『つわり』の原因解明 特定のホルモン増 米などのチーム」(朝日新聞、2023年12月27日)という記事を見たのだが、リーダーの女性研究者は、つわりの原因が解明されてこなかった理由について「一般的に女性の問題は軽んじられてきた傾向がある。また、つわりは多くの人に起こるもので『我慢するしかないもの』と考えられてきた」と述べていた。確かに生理痛もつわりも出産も更年期障害も、女性の痛みは「我慢するしかない」と思われてきた。でも、女性があらゆる分野に参画していくことで、いろんな問題が発見されるようになっている。ジェンダー平等参画とは単なる数合わせではなく、意思決定の場に新たな視点を持ち込み、政策・制度を変え、社会を変えていくことなんだと実感した国際女性デーであった。

★落合けい(おちあい けい)
元「月刊連合」編集者、現「季刊RENGO」編集者
大学卒業後、会社勤めを経て地域ユニオンの相談員に。担当した倒産争議を支援してくれたベテランオルガナイザーと、当時の月刊連合編集長が知り合いだったというご縁で編集スタッフとなる。

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