9月の『Free walk』で上野恩賜公園を散策したが、12月は東京国立博物館の隣に建つ国際子ども図書館に行ってきた。国際子ども図書館のレンガ棟は、1906年に「帝国図書館」として作られた建物で東京都の歴史的建造物に選ばれている。第二次世界大戦後、帝国図書館が廃止されてからは「国立国会図書館」の分館として使われてきたが、2002年に「国立国会図書館 国際子ども図書館」として開館された。館内には、明治以降の日本の子どもの本の歩み(児童文学史・絵本史)が展示されている児童書ギャラリーがある。2015年に完成したアーチ棟には、児童書研究資料室や研修室が設置され、地下1・2階には約65万冊が収蔵できる書庫が設けられ、全館で約100万冊が収納可能となっている。
レンガ棟の3階には、本のミュージアムがあり、様々なテーマで子どもの本を紹介する展示会を行っている。10月~12月にかけては、11月に創立50周年を迎えた日本国際児童図書評議会(JBBY)との共催で「国際アンデルセン賞 受賞作家・画家展」が開催されていた。国際アンデルセン賞は、児童文学への永続的な寄与に対する表彰として、国際児童図書評議会(IBBY)から隔年で贈られる国際的な賞で、「小さなノーベル賞」とも言われている。今回の展示では、『マッチ売りの少女』『みにくいアヒルの子』『裸の王様』『親指姫』などの作者であるデンマークの19世紀の童話作家アンデルセンや、『ヘンゼルとグレーテル』『シンデレラ』『赤ずきん』『ブレーメンの音楽隊』『眠りの森の美女』『白雪姫』『長靴をはいた猫』などのドイツの昔話を編纂したグリム兄弟の『グリム童話集(第1巻1812年、第2巻1815年)』をはじめ、1865年のイギリスのルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』、1883年のイタリアのカルロ・コッローディの『ピノッキオの冒険』、1905年のアメリカのオー・ヘンリーの『賢者の贈り物』、1933年のドイツのエーリッヒ・ケストナーの『飛ぶ教室』や、戦後「ムーミン・シリーズ」で愛されたフィンランドのトーベ・ヤンソン、1964年のイギリスのロアルド・ダールの『チョコレート工場の秘密』などの本と画を鑑賞することができた。また、日本人の受賞者では、1971年の角野栄子の『魔女の宅急便』、2007年のアニメーションで人気となった上橋菜穂子の『精霊の守り人』などの「守り人シリーズ」、昔話の「笠地蔵」「桃太郎」の画を描いた絵本画家の赤羽末吉の作品が展示され、しばし、足を止めて見入った。
国際子ども図書館を囲むように、東京藝術大学がある。正門近くの銀杏や欅の木には、黄色や赤の葉が残っていた。花見の後、葉桜となり、秋には葉を落とし枝のみになる桜の木も紅葉することを初めて知った。暖冬が続いた東京の珍しい景色だ。文京区の根津を抜けて、東京大学の赤門前まで足を延ばした。宮沢賢治は1921年1月に上京し、8月に花巻(岩手県)に帰るまで、赤門前にあった「文信社」で謄写版刷りの筆耕や校正などで生活費を賄っていた。その半年余りの下宿先が赤門から約10分の場所にあった。賢治は、休日には帝国図書館に通い読書に専念した。東京で過ごした期間、童話や詩歌の創作にも没頭し、童話集『注文の多い料理店』と詩集『春と修羅』もここで書かれた。
11月の連合第94回中央委員会での芳野会長の挨拶の中で触れられた、「はたらけど はたらけど猶(なお) わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと(じっと)手を見る」と詠んだ石川啄木も、赤門から約15分にあった理髪店「喜之床(きのとこ)」に間借りしていた。喜之床での生活は、1909年から2年余りで、朝日新聞社の校正係として定職を得て、久しぶりに家族そろっての生活となった。啄木の最も優れた作品が生まれたのは、この喜之床時代の特に後半の1年間と言われている。しかし、家族を支える生活との戦い、嫁姑の諍い、母と妻と自身の病気などもあり、疲れた心は「かにかくに 渋谷村は 恋しかり おもいでの山 おもいでの川」との望郷の和歌となった。
宮沢賢治の短編童話「オツベルと象」、石川啄木の『一握の砂』に収録されている「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」…ともに中学校の教科書に載っていた作品だ。教えたことが懐かしく思い出された。