早稲田に近い神楽坂の西方に「赤城神社」がある。1300年(鎌倉時代)、上野国(群馬県)の赤城山の麓から牛込早稲田に移住した武士の大胡氏によって創建され、その後1460年(室町時代)に江戸城を築城した太田道灌が牛込台(神楽坂)に移した。江戸時代には徳川幕府から江戸大社の一つとされ、牛込の鎮守として赤城大明神や赤城明神社と呼ばれて信仰を集めた。明治維新から現在の赤城神社となった。境内に私が通った「赤城幼稚園」があったが、2008(平成20)年に少子化の影響を受け、閉園となった。毎年9月にお祭りがあって、吹き矢とかウナギ釣りとか、1等賞が出ない謎のくじ引きとか懐かしい思い出がある。4月生まれで体が大きかったから、「きく組」のプラカードを持って先頭を歩いた運動会の広場は、今見ると何と小さい空間なのかと感じた。
出身幼稚園の閉園は寂しいものだが、私の卒業した都立「赤城台高校」も今はない。早稲田大学の正門へ向かう「早大通り」沿いにあって、自宅から徒歩10分で通学した。赤城台高校の前身は東京府立第二十高等女学校であった。1991(平成2)年に最期の卒業生を送り出して廃校となった。現在は同じ敷地に、普通科と情報科が設置された昼夜間四部制の定時制課程と通信制課程を持つ単位制の都立新宿山吹高校が設置されている。所在住所は「山吹町」で、名前の由来は太田道灌の逸話からきている。
鷹狩りで突然の雨に見舞われた太田道灌が蓑(みの)を借りようとし、応対した農家の娘から一枝の山吹の花を差し出され、「山吹を所望したのではない。蓑を借りたいのだ」と声を荒げ、濡れて城に帰り、家来の古老にその話をした。古老は「平安時代の『七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに 無きぞ悲しき』という歌があり『蓑』と『実の』を懸けて、貧しい家で蓑一つ無いことを山吹に例えた」と話した。太田道灌は、自らの浅学を恥じ、その後歌道に精進したという話だ。
赤城神社は牛込台地の頂きにある。境内から北西に坂を下ると山吹町や早稲田が広がる。赤城台高校の校歌に
♬赤城の丘に風立てば~♬
とある。遠くは池袋の「サンシャイン60」の高層ビルが望める。1978(昭和53)年、私が高校を卒業後4月に完成した60階239mのビルは完成当時、アジアで最も高かった。赤城幼稚園も赤城台高校もその姿は無くなってしまったが、遠い記憶の懐かしい思い出の地である。