季刊RENGO創刊号の記念すべき対談企画は、野球解説者の古田敦也さんと芳野友子会長。ヤクルトスワローズの捕手として攻守にわたって活躍し、通算2000本安打、1000打点を達成。 2004年には、労働組合日本プロ野球選手会会長として歴史的ストライキを決断し、12球団制を守り抜いたことは、今も語り継がれている。その後、プレイングマネージャー(選手兼任監督)を経て、現在は野球解説者として幅広く活躍。昨年12月には日本プロ野球名球会の理事長に就任した。それぞれの立場で組織を率いるリーダーシップや若い世代へのアプローチをどう考えるのか、率直に語り合った(季刊RENGO2023年春号転載)。
日本プロ野球史上初のストライキ
球団はオーナーのもの?
山根木 季刊RENGO創刊記念ということで、2004年に労働組合日本プロ野球選手会会長として12球団制を守り抜いた古田敦也さんに対談をお願いしました。
芳野 本日はありがとうございます。実は私、大の野球好きで月1回は球場に行きます。もちろん連合会長になってからも(笑)。応援グッズもたくさん持っています。コロナ禍で声援禁止になってストレスが溜まっていたんですが、やっとこの春からは思いきり応援できると聞いてワクワクしています。古田さんとは同世代で、現役時代のご活躍も目に焼き付いています。お会いできて感激です。
古田 こちらこそありがとうございます。連合のみなさんとは、2004年のストライキに多大なご支援をいただいて以来のおつきあいですね。
山根木 はい。今、あの激動の日々を振り返っていかがですか。
古田 発端は、近鉄バファローズの経営が悪化し、オリックス・ブルーウェーブに譲渡・合併するという話でした。シーズン真っ最中の6月、選手に何の説明もなく報道された。さらに球団オーナーからは「新たな合併を模索」「パ・リーグを4球団にして1リーグ制に」といった発言も出てきた。球団の数が減れば、選手のみならず関係者・スタッフにも重大な影響が出る。選手会はNPB(日本野球機構)に説明を求めましたが、「これは経営権の問題で選手が口を出す話じゃない」という態度でした。選手会は、12球団の選手会の総意で「合併反対・12球団・2リーグ制の維持」を求めて労使交渉を申し入れました。最初は交渉の席にすら着こうとしなかった。席に着いても聞く耳なんてない。時間稼ぎをして合併の手続きを進めてしまおうという魂胆が見え隠れしていました。盛んに「創造するための破壊だから創造的破壊」だというので、「その先のビジョンは?」と聞くと答えられない。これは選手とプロ野球の未来のために絶対に阻止しなければと思いました。
芳野 当時は「会社は株主のもの」という考え方が強まっていて、働く人を置き去りにした会社の買収や譲渡が起きていました。でも、働く人は企業組織の重要なステークホルダー。プロ野球だって選手やファンがいなければ成り立ちません。
古田 選手会が求めたのは、そこなんです。日本のプロ野球は、単なる興行ではなく社会的な公共財。球団は、全国に分散して本拠地(フランチャイズ)を構えていて、地元のファンに支えられている。チームを応援することは多くのファンにとって生活の一部であり、生きる力になっている。だから、最終的に決めるのはファンだと思っていました。当時は発信する手段もなかったので、積極的にメディアに出て、なぜ選手会は球界再編に反対なのか、交渉の場で何が語られているのか、誠心誠意話をしました。シーズン中なのに「朝まで生テレビ!」にも出ました(笑)。ファンも反対の声をあげ始めましたが、経営者側はその声にも耳を傾けようとしなかった。ストライキやむなしという流れになった時に、ちょうど連合の笹森清会長(当時)にお会いする機会ができたのです。
山根木 連合本部に来ていただきましたね。
古田 テレビで拝見していた笹森会長にお会いできて感激しました。本物だって(笑)。会長からは、ストライキをやるならとにかく団結してやれ、全員投票して1人の脱落者も出すなとアドバイスをいただきました。選手たちには「ストライキをすることが目的ではない。ただ、ストライキは労働組合に認められた正当な権利であり、交渉を進めるために行う」と説明し、9月の週末にストライキを設定しました。首位攻防戦など大事なカードが組まれていて、ファンには本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。だから、スト決行に備えてサイン会などのファンサービスの準備も進めました。
山根木 連合の仲間もイベントの応援に駆けつけました。
芳野 私は当時連合の中央執行委員で、スト権を行使することの重大性を理解していましたから、冷静に情勢を見守らなければと思いつつ、全面的に応援していたことを覚えています。あの時、子どもから大人まですべての国民が応援していました。選手会の、野球を愛し、働く人やファンを大切にするという姿勢が共感につながったんだと思います。
山根木 硬直した局面をストが打開し、仙台を本拠地とする楽天イーグルスの新規参入が了承され、12球団・2リーグ制が維持されました。セ・パ交流戦やクライマックスシリーズも始まりプロ野球の活気が向上しました。
古田 応援してくれたみなさんのおかげで、今のプロ野球がある。感謝しています。
個人の力を引き出し組織の力を高める方法
山根木 古田さんは、いろいろな立場で野球に関わってこられましたが、立場の違いで野球に対する見え方が変わったという経験はありますか。
古田 アマチュア時代は「一戦必勝」だけを考えて野球をしていました。プロになると、いかにファンが喜ぶ野球ができるかを考えました。選手会長や監督も経験しました。自分に資質があったからというより、その役職に就いたことで多角的に野球を見ることができるようになり、人間的にも成長できたと思います。
山根木 芳野さんは、職場の組合員から始まって企業別組合や産業別組合、連合東京で活動され、連合の会長に就任されましたが、労働組合の捉え方は変わりましたか。
芳野 企業別組合の役員時代は、職場の人間関係など一人ひとりの組合員の悩みや困りごとに向き合い、スピーディーに対応していくことが活動のメインでした。産業別組合になると、産業に関わる政策を考えることが中心になり、連合になると、さらにその範囲が広がった。勉強することがほんとに多くて追いついていない部分はあるのですが、特に法律の制定や改正に関わる政策・制度は、働く者の立場で日本の社会をどういう方向に進めていくのかが問われる課題であり、責任の重さを痛感しています。
言っていかないと変わらない
山根木 選手会は選手の地位向上と球界の発展を目的に設立されましたが、野球界の組織のあり方に課題を感じたことは?
古田 野球界は、中学、高校、大学と、先輩・後輩の上下関係が非常に厳しい。そういう環境で育ってきたので、プロになっても相当実力をつけないと先輩にモノは言えない。ましてや球団代表や管理部門に意見するのは非常にハードルが高い。
選手会は、弱い立場に追いやられている選手の問題を見つけて、おかしいことはおかしいと言っていくことが本来の役割です。今はだいぶ改善されてきていますが、自分がいた頃は、その機能が十分発揮されているとはいえなかった。当時の平均選手寿命は7年。我慢していたら選手生活が終わってしまう。球界再編問題をはじめ様々な経験を積み重ねて、おかしいと思うことは言っていかないと変わらないと痛感しました。その思いが共有され、あるべき選手会の姿になってきていると思います。
芳野 連合会長に就任して、「連合運動のすべてにジェンダー平等の視点を」と訴えてきました。私は、労働組合運動の中でも、特に男女平等や女性の地位向上をメインに取り組んできましたが、働く女性の環境は変わりつつあるし、法制度も整備されました。ただ、労働組合は意思決定の場に女性が非常に少ない。だから、その時代のそれぞれの局面で、女性組合員の声がきちんと反映できていたのだろうかという思いはあります。
現場の声を集めて行動に移せるのがリーダーシップ
山根木 一人ひとりの力を引き出し、組織の力を高めるリーダーシップとは。これまでの経験を通じてどのように感じられていますか?
古田 リーダーには、ある種のカリスマ性が必要です。それは「この人の言うことを聞いていたら成長できる」と思えること。僕がそう思えたのは、やはり野村克也監督です。「ぼやきのノムさん」の異名通り、毎日ミーティングでこまごまと怒られる。でも、なぜかついていこうと思わせてくれて、実際に結果が出て、チームが強くなっていきました。
芳野 納得です。「連合会長としてリーダーシップを発揮してほしい」と言われるようになって、改めてリーダーシップって何だろうと考えました。私の思うリーダーシップとは、まず自分自身が「この人と一緒に組合活動をやりたい」「もう一度この人に会いたい」と思える人になること。そして、自分がめざすべき方向性をていねいに伝えていく言葉を持つこと。それが団結力、組織の力を高めることになると…。
リーダーとして説得力ある言葉を持つにはどうすればいいのか。カギは「現場主義」です。現場で今何が起こっていて、職場の人たちが何を望んでいるのかという情報を持たないと、どこに向かうべきか判断できない。現場が分かる人間でありたいし、現場の声を集めて行動に移せるのがリーダーシップだと思います。
古田 組織やリーダーシップにはトップダウン型とボトムアップ型があると言われます。僕はどちらかというとボトムアップの調和型ですが、現実には前面に立たなければいけないこともある。芳野会長はご存じだと思いますが、矢面に立つと本当に矢が飛んでくるんです。
芳野 はい、360度から飛んできますよね(笑)。
古田 組織内は調和して守り、飛んでくる矢は矢面に立って振り払う。そして叱咤は真摯に受け止めつつ、無責任な批判は聞き流すようにしています。
若い世代へのアプローチ
「知らなかった」は通用しない
山根木 かつて日本プロ野球選手会結成30周年のイベントにご招待いただきましたが、歴代会長の苦労話を、嶋選手や大谷選手、藤浪選手が直立不動で聞いていたのが印象的でした。
古田 選手会の最初の要求は外野のフェンスにラバーを貼ってほしいという安全対策でした。その後、ダッグアウト(プレーヤーズベンチ)に空調を入れるなどの労働環境改善や最低保障年俸、フリーエージェント制の導入、セカンドキャリア支援などに取り組んできました。ただ、若い世代に「先輩たちのおかげで今の恵まれた環境がある」という言い方はしたくない。それよりも、問題に気づいて声をあげることの大切さを伝えたい。選手会は2010年、肖像権をめぐる訴訟に最高裁で敗訴しました。プロ野球選手の肖像や氏名を利用する権利は選手に帰属するべきですが、球団側が長期にわたって管理していた。野球ゲームへの利用をめぐって権利意識が高まり、選手会は肖像権が選手個人にあると裁判に訴えましたが敗訴した。その判決理由を聞いて、本当に驚きました。「1951年に統一契約書が制定されて以来、2000年に異議を唱えるまでは、長期間にわたり選手は球団による肖像権管理を許してきたから」と…。「知らなかった」は通用しない。おかしいと思うことがあったら、情報を集めて問題点を整理し、声をあげないといけないんです。
今の若い選手は優秀です。プロに入る前にすでにいろんな情報を持っている。そのことを理解しないで、昔のやり方を押し付けたら信頼を失うだけです。昔のように九九から教えるのではなく、方程式や因数分解を教えてあげれば喜んで勉強する。
山根木 環境は整ってきたけれども、選手会がやっていく領域はまだまだあるということですね。連合も試行錯誤しながら様々な方法で若者へのアプローチに力を入れています。
芳野 「若者の組合離れ」と言われますが、労働組合の役割や労働者の権利を職場の若い人たちにきちんと説明できているのかと思うんですね。かつては青年部や青年委員会があって、イベントをやったり、若い組合員の要求をまとめて執行部に持ち込んだり、活発に活動していた。でもバブル崩壊後、新卒採用の抑制が続くと青年活動の担い手も減少して、若い世代の声を聞くルートが弱くなってしまった。こちらから積極的にアプローチしないと、待ちの姿勢では情報は入ってこない。労働組合の情報発信は、会議や機関紙を通じて知らせるという一方通行が多かったのですが、今、「対話」を大事にして、組合と組合員との距離を縮めていきたいと考えているんです。
古田 2004年のストライキの時は、手分けして何度も何度も選手に説明に行きました。理解できない部分があったとしても「自分たちのために頑張ってくれているんだ」ということは分かってくれた。直接語りかけることは大事だと思います。最近は、ファンとのコミュニケーションも双方向になっています。SNSを通じてファンと選手が交流し、一緒に盛り上がる。そんな場面が増えました。
野球の力で日本を元気に
山根木 球界の発展のために取り組みたいことはなんでしょう?
古田 2000年前後は、テレビ中継の視聴率が落ち込んでプロ野球は衰退すると言われました。確かに地上波の中継は少なくなりましたが、各球団・選手の努力で、球場に足を運んでくれるファンが増えている。各球団がいい意味でのライバル意識を持って本拠地の子どもたちや大人たちと一緒に盛り上げようというスタンスを鮮明にしてきたからです。さらに、アメリカメジャーリーグで活躍する選手が出てきたり、WBCが開催されたり、野球の楽しみ方の幅が広がっています。
先日、日本名球会の理事長を拝命しました。金田正一さん、長嶋茂雄さん、王貞治さんというレジェンドが創設し、「野球の力で日本を元気に」を合言葉に野球の普及と社会貢献活動を続けてきました。私も、野球にはもっと社会を元気にできる可能性があると信じています。子どもの数が減って野球人口も減っていますが、原点に立ち返って「野球ってこんなに面白いよ」と子どもたちに伝えていきたいと思っています。
芳野 連合は、地域に根ざした顔の見える運動を進めるために、47地方連合会のもとに地域協議会を置いています。労働組合の活動は職場の問題を労使で解決していくことが中心になりますが、今それだけではやっていけない。地域組織と連携して、子どもの貧困やDVなどの課題に対応できるような体制をつくっていきたいと思っています。
古田 芳野会長には、正しいと思うことを貫き、働く人のために立ち向かってほしい。その姿が見えれば、人はついてきてくれる。プロ野球にも、労働組合にも、実は「声なき支援者」がたくさんいると思うんです。そのことを信じて、頑張っていただきたいと思います。
芳野 たくさん元気をいただきました。
山根木 本日はありがとうございました。
古田敦也 ふるた・あつや
日本プロ野球名球会理事長
立命館大学卒業後、トヨタ自動車入社。1988年ソウルオリンピックの野球(公開競技)の日本代表として銀メダル獲得に貢献。1990年ヤクルトスワローズへドラフト2位で入団。2年目には首位打者に輝くなど攻守両面にわたって活躍。5度のリーグ優勝と4度の日本一へと導く。1998年日本プロ野球選手会会長に就任。2004年には球界再編問題に対してストライキを決断し12球団制を守る。2005年通算2000本安打・1000打点を達成。2006年選手兼任監督に就任。2007年現役引退・監督退任し、プロ野球解説者として活躍。2015年野球殿堂入り。2022年日本プロ野球名球会理事長に就任。著書に『「優柔決断」のすすめ』(PHP新書)など。
労働組合日本プロ野球選手会
プロ野球選手の地位向上を目的に設立。1985年東京都労働委員会の認定を受け、労働組合として法人登記。NPB(日本野球機構)のプロ野球12球団に所属する日本人選手全員と一部外国人選手、約700名が加盟。事故防止策などプレーに集中できる環境づくり、契約関係の改善、セカンドキャリア支援などに取り組む。また野球の普及促進に向けては、一般社団法人日本プロ野球選手会を設立し一体的に活動を進めている。
日本プロ野球名球会
1978年創設。プロ野球OBを会員とし、少年野球への指導・支援などの「野球振興」とチャリティイベントなど「社会貢献」を柱に活動。
取材協力:労働組合日本プロ野球選手会、明治神宮外苑総合球技場、ゼット株式会社