(月刊連合2022年7月号転載)
皆さま、こんにちは。夏ですね。
夏というと、太陽がサンサンと輝く中、元気が出てくる人がいます。一方、暑いのが苦手という人も多いですね。例年は元気が出てくるのに、今年はどうも調子が優れない、ということもあるかもしれません。
人は皆、自分はこうなりたい、こうしていたいという希望の状態があります。それが希望通りにうまくいっていれば嬉しいし充実感がありますが、うまくいくとは限りません。うまくいかなければがっかりしたり、うつうつとするのは当然のことです。
心理学・精神医学用語に「対象喪失」というものがあります。精神分析で重視してきた概念で、人にとって何か大事なものを失うことです。対象喪失には、はっきり外からもわかる、実在するものが失われる「外的対象喪失」と、心の中で起こる「内的対象喪失」があります。大事な人を死によって失うこと・離別・故郷との別れ・退職・転勤などは外的対象喪失であると同時に、心の中で内的対象喪失が起こっています。
一方、心の中で起こっていて、外からはわかりにくい喪失もあります。たとえば、絶対に達成したいと思っていた仕事が達成できないのは、大きな「内的対象喪失」です。他の人から見れば「仕方がない」と思うようなことでも、本人にとっては大きな喪失になるのです。
Gさんは、元会社役員です。退職後は精力的に地域や同窓会で活動していました。しかし、長年住んだ家の建て替えの話が進むのと同時に地域の仕事が多忙になったところ、以前はできていた仕事が思うようにできなくなりました。次第に食欲不振・不眠・めまい・不安感等が出現し、悪くなる一方だったため、家族に伴われて心療内科を受診しました。自分が以前のように仕事がこなせないことに強い不全感を抱いていました。(矢吹著『内的対象喪失』より一部要約)
Gさんは長年、地位もあり精力的に仕事をこなしてきた人だったので、加齢によって以前のように仕事がこなせないという自分自身の力の低下への直面・そして家の建て替えは働き盛りの子ども世代主導で進んだこと、つまり権威や役割の喪失への直面も大きいことでした。以前できたことができなくなる、思うようにいかなくなる、ということは大きな内的対象喪失です。本人にとっては「仕方がない」では済まないのです。
思うようにならない、ということは残念ながら人生につきものです。コロナ禍ではなおさらですね。喪失は全般的にうつ病の発症要因になりやすいものですが、内的対象喪失―思うようにならないこと―も例外ではありません。精神療法(カウンセリング)では、そこで「仕方がないじゃないですか」とは決して言いません。思うようにならないことの悔しさ・悲しさ・やるせなさをお聴きし、心の中にその気持ちの置き所をみつけていくお手伝いをします。
思うようにならなくても、大丈夫。そう思えるようになるのは簡単ではありませんが、ひとつの大事な視点です。
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矢吹弘子 やぶき・ひろこ
矢吹女性心身クリニック院長
東邦大学医学部卒業。東邦大学心療内科、東海大学精神科国内留学を経て、米国メニンガークリニック留学。総合病院医長を経て1999年心理療法室開設。2009年人間総合科学大学教授、2010年同大学院教授、2016年矢吹女性心身クリニック開設、2017年東邦大学心療内科客員講師。日本心身医学会専門医・同指導医、日本精神神経学会専門医、日本精神分析学会認定精神療法医、日本医師会認定産業医。
主な著書:『内的対象喪失-見えない悲しみをみつめて-』(新興医学出版社2019)、『心身症臨床のまなざし』(同2014)など。