2025春季生活闘争では、前年に引き続き労務費の価格転嫁が賃上げの重要なカギを握る。政府も価格転嫁を議論する研究会を立ち上げ、2024年末には必要な対策を報告書として取りまとめた。報告書はヒット曲の歌詞を引用し、「弱い者をたたくのはやめよう」というメッセージを発信している。研究会の座長を務めた東大名誉教授の神田秀樹氏に、報告書に込められた思いや提言の具体的な内容を聞いた。

神田秀樹(かんだ・ひでき)
東京大学法学部卒業。学習院大学法学部助教授、東京大学法学部助教授を経て、1993年5月から東京大学大学院法学政治学研究科教授。2016年3月に東京大学を退職し、同年4月から2024年3月まで学習院大学大学院法務研究科教授を務めた。
現在、東京大学名誉教授。研究分野は、商法、金融法など。著書として、『会社法(第26版)』(弘文堂、2024年)、『会社法入門(第3版)』(岩波新書、2023年)、『The Anatomy of Corporate Law(3rd ed.)』(共著)(Oxford University Press, 2017)など。
企業取引研究会の座長を務めた。
法改正や意識改革で、サプライチェーン全体の商慣行を変える
「企業取引研究会」は2024年7月に発足し、約半年にわたって有識者や労使の代表らが、価格転嫁を定着させるために必要な環境整備について議論を重ねた。同年12月に公表された報告書ではザ・ブルーハーツの「Train-Train」の歌詞が引用されている。
「弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたく その音が響き渡れば ブルースは加速していく 見えない自由がほしくて 見えない銃を撃ちまくる 本当の声を聞かせておくれよ」
「弱い者達」とは、商品やサービスの価値を高めるという本筋の努力をせず、価格を据え置くために「さらに弱い」受注者を買いたたき、利益を確保しようとする企業のことだ。
神田氏は言う。
「日本は約30年間、製品価格が据え置かれ、コストの増加分を立場の弱い中小企業に負担させる構造が『社会的規範(ノルム)』となってきました。そのため中小は賃上げもできず、賃金が上がらないので経済も成長しない、という悪循環が続いてきたのです」
近年の物価上昇と賃上げで、デフレ脱却の兆しは見えつつある。ここで価格転嫁を進めて賃金と物価の好循環を生み出せなければ、日本経済は「じり貧」が続くという強い危機感が、研究会のメンバーにはあったという。そのためには「サプライチェーン全体の商慣行を変えなければいけない」と、神田氏は強調した。
「商慣行を変えるには、法律などのルールを見直すだけでなく経営者や労働者、そして社会全体の意識を変え、マインドの面でもこの『ノルム』から脱却する必要があるのです」
前例踏襲、思考停止から脱し、「フェア」な価格を再設定
取引価格を決めるに当たっては本来、発注者と受注者が対等に交渉し、製品やサービスの価値やかかったコストに見合う「フェア」な金額を決めるのがベストだ。しかし「実際には発注者側の大企業と下請けの中小には、なかなか対等な関係が成り立たず、転嫁も思うようには進んでいません」。
研究会では、発注者側が受注者に「値上げするなら海外の業者への切り替えも考える」などと取引停止をほのめかし、価格転嫁を諦めさせるケースや、荷主が運送事業者に荷積み、荷下ろしまで無償でさせるケースが報告された。「協賛金」という名目で製品価格の一部を差し引き、結果的に代金を減額する発注企業もあった。
公正取引委員会の調査では、コストに占める労務費の割合が高いサービス業のサプライチェーンでは、製造業や流通業などに比べて、取引の各段階で価格転嫁が遅れているという結果も出ている。2023年から24年にかけて改善は見られたが、それでも未だに「労務費は社内で吸収すべき」との慣習から価格転嫁を申し出られない下請け業者がいることもうかがえる。
「コストの増加分を全額転嫁するのが正しい姿かと言われれば、異論もあるかもしれません。しかしそれならば発注側も、強い立場を利用して都合のいい価格を押し付けるのではなく、受注者と話し合い双方にとって『フェア』な価格を決める必要があります」
受注側が価格改定を申し入れても「昔からこうだったから」「他社もこうしているから」と言われて受け付けてもらえない、というケースも多いという。これでは発注企業は価格に関する明確な根拠も示さない上、交渉のテーブルにすらつかないため、議論の余地がなくなってしまう。
「発注企業の社員の大半は、デフレが始まってから入社し、価格は据え置かれて当然だという商慣行が強く根付く中で思考停止に陥っています。しかし物価や労務費が上昇する中では、製品価格についても考え直してもらわなければいけません」
下請法改正も必要 適用対象の拡大や手形の廃止を提言
商慣行を変えるための具体策の一つが、発注企業から下請けへの不当な値引き要請などを規制する「下請法」の改正だ。すでに主要な改正から約20年が過ぎて、時代に合った内容へと見直す必要性も高まっており、研究会でも議論の大きなテーマとなった。
下請法の適用対象企業は資本金の額によって決まるが、適用を免れるため、資本金を適用外ぎりぎりの額に設定している発注企業もある。基準となる資本金の額を引き下げても、それを下回るよう資本金を減額する「いたちごっこ」になりかねない。このため報告書は、資本金だけでなく、従業員規模も適用要件に加えるべきだと指摘した。また発注者が代金の支払いに当たって、支払期日まで現金化できない約束手形を使うことも、下請け側の負担が大きいため廃止すべきだとした。
また下請法には、発注者が下請けに不当に安い価格を押し付ける「買いたたき」の規制はあるが、物価や労務費などのコスト上昇分を価格に転嫁しないことを、明確に禁じる条文はない。公正取引委員会が2022年に下請法運用基準を改正し、コスト上昇局面で価格交渉を行わないことや、下請事業者が価格の引上げを求めているのに、理由を示さず価格を据え置くことも同法に違反する恐れがあると発信しているが「実効的な価格交渉が確保されるような取引環境を整備するため、一方的に下請代金を決めて下請事業者の利益を不当に害する行為を正面から規制すべきです」。
ただ法改正を行っても、発注者、受注者がともに小規模・零細事業者の場合など、規制の対象から外れる取引は必ず出てくる。
「下請法対象外の中小同士が手形を使ったり、価格転嫁に応じなかったりしたら結局、好循環は生み出せません。法律だけでなくガイドラインや意識啓発などあらゆる手段を使い、サプライチェーン全体を変えなければいけない、というのはこうした理由からなのです」

内閣府「経済財政運営と改革の基本方針2024~政策ファイル~」(令和6年6月21日閣議決定)(抜粋)
「本当の声を」を伝え産業構造の転換を促す
労働組合が役割を果たしてほしい
法改正などによって枠組みを整えたとしても、「『商慣行を変える』と口で言うのはたやすいですが、実際に新しい商慣行を浸透させることは、容易ではありません」と、神田氏は指摘する。また物価上昇と賃上げの好循環を生み出すには、価格転嫁が進むよう商慣行を変えた上で、転嫁分を賃金に反映する、というもう一段の変化も必要だ。
また発注企業が下請けに対して「フェア」な価格を支払うためには、「コストを抑制することで利益を確保する」という従来の産業構造を根底から見直す必要もある。つまり人材や設備に投資することで、イノベーションを生み出したり付加価値を高めたりして、適正な対価で製品やサービスを提供できるビジネスモデルに変わらなければいけないのだ。
「産業構造という意味では、中小企業がひとつの発注者に依存する状況や、5次、6次と連なる多重下請け構造なども、見直すべき対象に含まれます」
そのためには経営者側はもちろん、労働組合側もノルムから脱する必要があると、神田氏は考えている。
「大げさに言えば企業別労働組合も、自分たちの賃上げ要求が産業構造を転換させられるかどうかのカギを握っている、くらいの気構えで春季生活闘争に臨んでほしい。経営側が価格転嫁について『前からこうだった』式の思考停止に陥っていたら、意識変革を働きかけるべきです」
報告書はブルーハーツの「本当の声を聞かせておくれよ」という歌詞を引用し、仕事を失うことを恐れて声を上げられずにいる受注企業の実態を政府などが把握することの重要性についても言及している。神田氏は連合のような労働組合こそ、職場の「本当の声」を伝え、より現場のニーズに合った環境を整備する役割を果たしてほしい、と訴える。
「下請法は専門的で、労働組合にはなじみが薄いかもしれませんが、実は現場で起きている買いたたきや価格転嫁の遅れ、そして賃上げにも深くかかわっています。ぜひ連合も現場の声を吸い上げ、政策決定のプロセスに反映させてほしいと考えています」
(執筆:有馬知子)
春季生活闘争シリーズ第1弾はこちら↓