2026年9月5日~6日、連合の平和4行動の締めくくりとして、北方領土の早期返還を求める「平和行動 in 根室」が開催される。北方領土とは、北海道根室市の納沙布岬の先に連なる、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の四島。1855年の日魯通好条約で日本固有の領土と確認されたが、1945年8月8日、ソ連軍は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告し、終戦以降も侵攻を続け北方四島を占領。約17,000人の島民は強制的に島を追い出されたという歴史的経緯がある。
ふるさとを追われた元島民を中心に北方領土返還運動が組織され、連合も平和4行動の1つとして取り組みを進めてきた。1991年にはソ連(現ロシア)が領土問題の存在を認め、北方墓参やビザなし交流が行われてきたが、政府間交渉は難航。さらに2020年の新型コロナのパンデミック、2022年のロシアによるウクライナ侵攻の影響で、交流事業も政府間交渉もストップしていたところに、今年8月13日、ロシアのプーチン大統領が、北方領土の択捉島を初めて訪問したことが報じられた。この厳しい状況の中で、どう運動を進めていくのか、北方領土返還要求運動連絡協議会(北連協)の児玉泰子事務局長に聞いた。

児玉 泰子(こだま たいこ)
北方領土返還要求運動連絡協議会事務局長/歯舞群島志発島出身の元島民
1944年10月、歯舞群島・志発島で生まれる。1947年、強制送還となり根室へ移住。観光客に領土問題を説明する「北方領土復帰PRガイド」(根室市嘱託)を務めた後上京し、北方領土返還要求運動連絡協議会の事務局長となる。返還運動の拡大、墓参や北方四島相互(ビザなし)交流などの実施に尽力。連合の「平和行動 in 根室」では、毎年「北方四島学習会」の講師を務めている。
ふるさとの島への想い
—「元島民」として北方領土返還運動の先頭に立って活動されてきました。島での生活とはどのようなものだったのでしょうか。
私は、1944年10月、歯舞群島の志発島で生まれました。島で暮らしたのは3歳までですから、その記憶はほとんどないのですが、祖母や母から島での暮らしがどうだったのか、毎日のように話を聞いて育ちました。
北方四島は、自然豊かで資源にも恵まれていました。択捉島は塩蔵サケ・マス、国後島はカニ缶、色丹島はクジラ、歯舞群島は昆布という特産品があり、私の家族も昆布漁で生計を立てていました。春から秋までは昆布漁の季節で、一家総出で働きます。朝4時に起きて、男衆は船で海へ、女衆は前日陸揚げした昆布を乾場に干していきます。そして、冬が来ると、その干し昆布を切り出して出荷していきます。
島は水源が豊富で平坦な草原が広がっており、馬の飼育も盛んでした。昆布を船から引き揚げたり、乾場に運んだりするために、どの家でも馬を飼っていて、馬は家族同様に大切にしていました。私の父は昆布漁の傍ら、島民が飼育していた馬の蹄鉄交換や軍馬の生産もしていました。島では、家族みんなで力を合わせて暮らしていたのだと思います。

—1945年9月、終戦後にソ連軍の侵攻を受けました。島では何が起きたのでしょうか。
9月3日、沖合に軍艦が現れた時は、誰もソ連軍だとは思わなかったそうです。それは、終戦の1カ月前、根室が米軍の大空襲に遭い、燃料タンクが爆破され市街地の約7割が焼失。志発島からも根室の空が赤く染まるのが見え、次は島が米軍の標的になると思っていたからです。
ソ連兵は銃を構えて上陸し島を占拠しました。主要な施設を接収し、民家にも土足で踏み込んで、日本兵をかくまっていないかアメリカ兵はいないか等を確認し、さらに家族構成を調べ、仏壇や骨箱までもひっくり返し、腕時計などめぼしいものを略奪しました。言葉が通じないので、親たちは子どもを抱き寄せ、じっと我慢しました。恐ろしかったと聞いています。若い女性は乱暴されるのを恐れ、髪を短く切り顔に煤を塗ったりして、押入れに隠れたりしました。
私はもうすぐ1歳になる頃でしたが、危害を避けるため母と2人で屋根裏部屋に隠れていました。ソ連兵の巡回はないはずの日、母が私を抱いて居間に降りていましたら、突然ソ連軍の隊長が家に入ってきました。家族は凍りつきましたが、隊長はにこにこ笑いながら母に両手を差し出したそうです。母が私を恐る恐る差し出すと、彼は私を抱き上げてあやしたそうです。私はきっとにっこり笑ったのでしょう。隊長は、身振り手振りで自分にもこのくらいの子どもがいると…。母は、その時、恐怖感がすっと消えて、「この人も人の親、普通の人間の血が流れているのだ」と思ったそうです。
その日から、隊長は私を「タイカ」と呼んで自分の子どものように可愛がってくれたそうです。私は「カピタン(大尉、隊長の呼称)」を怖がらず、隊長が馬で島内をパトロールする時は一緒に馬に乗せてもらっていたそうです。だから、ロシア人を怖いと思った記憶はないのです。
島民は、根室との連絡を遮断され、ソ連軍の監視下に置かれました。翌年の春、ソ連各地から民間人が島に移住してきました。移住して来たのは、第二次世界大戦で大きな被害を受けたウクライナやベラルーシ出身の人が多かったそうです。やがて、島の水産加工場では、日本人が彼らに仕事を教えて一緒に働くようになりました。占領下とはいえ日本人と移住して来たロシア人は、互いに助け合って暮らしました。
「荷物」以下に扱われた引揚者
—島を離れたのは?
1947年10月です。このまま島に留まりたいと言うと、その場合はソ連国籍に入れられ、日本には行けなくなると言われ、やむなく全員島を離れることにしたそうです。この引揚げは苦難の連続でした。向かったのは、根室ではなく樺太の真岡でした。島を離れる時、小船に乗せられ沖合に停泊していたソ連の貨物船まで向かいました。貨物船に乗せられる時は、モッコという網袋に詰め込まれ、リフトで甲板まで吊り上げられたのですが、恐怖で泣き出す者や念仏を唱える人もいました。貨物船は他の島々を回り、次々と日本人を収容し、船倉に押し込んでいきました。海が時化ると、嘔吐物や汚物を含んだ海水が船倉にいる人々の頭に降りかかり、悪臭が漂う船倉で、体力のない老人や幼な子は力尽き、亡骸は海に葬られていきました。私たち引揚者は「荷物」以下に扱われたのです。
真岡では収容所に入れられましたが、食事はわずかな黒パンと具が入っていない塩スープのみ。多くの人が「まんま食べたい」と言いながら、飢えと寒さで亡くなりました。私たち家族は島を出る時、カピタンに「日本は食糧が不足している。食料と衣類を持ちなさい」とアドバイスされ持ち出した食料が家族の命綱になりましたが、日に日に寒さが厳しくなり、これから先どうなるのか不安な毎日が続きました。
11月、やっと日本の船が迎えに来ました。船内で提供された温かいご飯を口にした時、収容所で亡くなった方々を思い出し、手を合わせました。引揚げ船は函館に到着し、上陸の諸手続きを済ませたのち、親族のいる根室に向かいました。しかし、根室は焼け野原。12人の家族が一緒に住める家はなく、祖父母と父と兄は親戚の家に、母と私たち姉妹は母の実家に住むことになりました。函館に上陸した時、円の切替えで、島から持ち出したお金は紙クズとなり、着のみ着のままで送還された島民は、大変な苦労を強いられました。
子どもの頃、祖母に会いに行くと「必ず島に帰る。島に帰ったら家族みんなで暮らせる。だから今は我慢するのだ」と私に言い聞かせました。父は、家族が全員で暮らすために働き、引き揚げから2年後やっと資金の目処がつき、小さい船を手に入れました。これでまた家族みんなで暮らせると思った矢先、購入した船を造船所から馬車で家まで運ぶ途中、事故に遭い亡くなりました。島だけが、家族みんなで暮らした唯一の場所になってしまったのです。
家族みんなで楽しく暮らしたふるさと
—北方領土返還要求運動に関わることになった原点とは?
志発島で曽祖父の月命日のお参りを欠かさなかった祖母は、引揚げ後、お参りができないことを悔やみ曽祖父に詫びていました。納沙布岬から志発島まではわずか23キロほど。私は、祖母の話を聞きながら、島はすぐそこに見えているのに、なぜお参りに行けないのか不思議でした。
根室で暮らし始めて20年が過ぎたある夏の日、島を見ていた祖母は突然海に入り、島に向かって歩き出しました。家族が急いで引き戻しましたが、その年の冬、納沙布岬に近い川に身を横たえ、亡くなりました。
大好きな島を追われた祖母の望郷の念を思い、涙があふれました。父も祖母も亡くなったけど、島に帰れば、みんなで一緒に暮らせる。私を可愛がってくれたカピタンにも会える。「島に行かねば。そのためにはできることをする」、そんな島へのロマンが私の返還要求運動の原点です。
—活動拠点を根室から東京へ
1956年、日ソ共同宣言が調印され、国交は回復しましたが北方領土は返還されませんでした。私は北方領土問題を多くの人に知ってもらう必要があると考え、23歳の時、納沙布岬を訪れる観光客に北方領土問題を理解してもらう「北方領土復帰PRガイド」(根室市嘱託)になり、毎日島々のことを語りかけました。「頑張って下さい」と立ち去る、観光目的で訪れる方々に話しかけることが虚しくなり始めた頃、「あなたのような人は東京に出て声を上げたほうがいいのでは」とアドバイスされたのを機に上京しました。
しかし東京では、どこに行くあてもありません。半年後、安全保障問題研究会を主宰する末次一郎さんに出会いました。氏とは納沙布で一度お会いしたことがあり、「君は負けず嫌いだが、それだけではだめだ。私の下で運動等を勉強しないか」とお誘いを受け、運動の進め方や人と人を結び付ける大切さを学びました。当時、全国でバラバラに行われていた北方領土返還運動を一つにという気運が高まり、氏の呼びかけで、全国約90の返還運動団体が協力して「北方領土返還要求運動連絡協議会(北連協)」を設立。私は、ボランティアで事務局長を引き受け、返還要求運動に直接携わることになりました。
—北連協ではどんな活動を?
北方領土返還要求キャラバン隊を編成して全国行脚を行ったりしましたが、加盟団体間の連絡や調整が私の主な仕事でした。1979年には、納沙布岬に返還運動を象徴するシンボル像の建設計画が決定し、翌年から募金活動を展開。1981年に「四島のかけ橋」が完成し、灯火台には沖縄波照間島から運ばれた「祈りの火」が灯されました。
「北方領土の日」制定にも関わり、その最初の日となった1981年2月7日の「北方領土の日設定記念・北方領土返還運動推進全国集会」開催にも携わりました。翌年から毎年「北方領土の日」に開催する「北方領土返還要求全国大会」の事務局として運営に携わっています。大会は北連協と官民が一体となり実行委員会を組織し、運営は北連協が中心的な役割を果たしています。


(左端、2016年2月)
北方墓参の再開と北方四島相互(ビザなし)交流
—墓参やビザなし交流に参加されて、思われたことは?
私が墓参で初めてふるさとの志発島を訪れたのは1989年のことです。上陸すると、打ち寄せる波と波に転がされる小石の音に包まれました。これが「ふるさとの音」なんだと思ったら涙が止まりませんでした。家族みんなで暮らした島、祖母があんなに帰りたがった島。丘の上の墓地で祖母の代わりに海に向かって手を合わせました。
1992年に始まった最初のビザなし交流で、国後島に行った時、湾内から見た島は時間が止まったかのように寂れた印象でした。私たちが埠頭に到着すると、島で暮らすロシア人がグラジオラスの大きな花束を持って出迎えてくれた。感激して憂鬱な気持ちが吹き飛びました。ソ連邦が解体し新生ロシアになり混乱した時期で、島では、大陸からの生活物資が届かないので人々は困窮していました。人々は日本との交流が始まり、日本企業が進出し、インフラ整備も進むのではと期待を寄せていたのです。

(択捉島、2012年撮影)

(択捉島、2012年撮影)
—印象深かったのは?
1994年10月、根室沖を震源とする大地震(北海道東方沖地震)が北方四島を襲いました。私は、北連協加盟団体に声をかけて救援物資を集め、外務省とともに島々に物資を届けました。連合にも多大なる資金協力をいただきました。実は、北連協の事務局には「なぜ不法占領しているロシア人に支援するのか」という批判の電話が殺到しましたが、私たちは「被災地である北方四島は日本の領土です。日本の領土に住んでいる人が被災しているのだから、日本人として救援するのは当たり前です」とお答えました。
計4回届けた物資の中で特に喜ばれたのは、ローソク等の緊急物資、粉ミルク・生理用品、栄養価の高いチョコレートやチーズ等の食品や生活物資、薪ストーブ等でした。校舎が崩壊し、仮校舎での勉強を余儀なくされていた色丹島の校長先生からスクールバスが欲しいという要望を受け、「希望の虹号」と名付けたバンを2つの学校に1台ずつ贈りました。何年かして色丹島の学校を訪問した時、案内された校長室の机の上に私の写真が飾ってありました。校長先生は生徒に「私たちが一番つらい時に助けに来てくれた日本人だ」と教えていると…。恥ずかしかったです。こうしたこともあり、2011年3月の東日本大震災の時は、色丹島の子どもたちが募金を集め樺太の赤十字経由で見舞金を届けてくれました。
私たちは一緒に暮らした経験がある
—北方領土問題の現状をどう捉えていらっしゃいますか?
ビザなし交流が始まって、島で暮らすロシア人も日露間に「北方領土問題」が存在することを理解してくれるようになりました。なぜなら「私たちは一緒に助け合って暮らした経験がある。だから、島が日本に返還されても、私たちはあなたたちを追い出したりしない。共生の道を考えましょう」と繰り返し伝えてきたからです。

交流を通して、日本との文化経済交流への期待が非常に高くなりました。それに応えて、運動会にスイカ割り、陶芸教室や絵画教室、殺陣や生け花、能面の体験に加え、料理会も行いました。さらに日本人医師による医療調査団も同行しました。こうした交流を重ねながら信頼関係が育まれました。

2010年代に入ると、プーチン政権は、北方四島の大規模開発「クリル諸島社会経済発展連邦プログラム特別計画」でインフラ整備に乗り出しました。学校、幼稚園、文化会館等の公共施設をはじめ、港湾、空港、道路が整備され、生産施設が誘致され、島々は見違えるように変わっていきましたが、日本はまったく蚊帳の外。最初はロシア政府の計画に疑心暗鬼だった島に住むロシア人たちは、工事が進むのを目のあたりすると、クレムリンは自分たちを見捨てていなかったと思うようになりました。 2016年、プーチン大統領が来日し、安倍晋三首相と会談。経済協力も含めて領土問題が協議されましたが、解決には至りませんでした。2020年に新型コロナのパンデミックが起きて、墓参もビザなし交流も中止。さらに2022年にはロシアのウクライナ侵攻が始まり、日露交渉はすべてストップしています。北方領土返還運動は今、振り出しに戻ったかのような厳しい状況にありますが、世界情勢が変われば、きっと道は拓ける。しなやかに風に吹かれながらゆらゆらと運動をやっていかなければと自分に言い聞かせています。
武力ではなく話し合いで解決してほしい
—「平和行動 in 根室」学習会で伝えたいメッセージ、早期返還に向けて私たちができるアクションとは?
北方領土の返還は、武力ではなく話し合いで解決してほしいと願っています。ソ連軍に追い出された元島民も、ソ連各地から移住させられた現島民も、同じ戦争の犠牲者だと思っています。だから、人間対人間の誤解を解いていくことが返還への糸口になると、相互交流に力を注いできました。不法占拠を続けるロシアを責めるだけでは領土問題は解決しません。交渉でしか解決しないと思います。交渉では、相互間にもメリットのある条件を提示することが大事だと考えます。10年前はそれが経済交流だったのですが、それも途絶えている今、新しいアイデアが必要です。例えば環境問題では、豊かな自然を保護しながらの観光業の振興などのアドバイス等、日本が貢献できることを一緒に考えてほしいと思います。
連合「平和行動 in 根室」に参加された皆様には、北方領土返還運動発祥の地を訪れて感じたこと、北方領土問題とその厳しい現状等を、地元に戻って職場・ご家庭・ご友人の方々に語り伝えていただきたいです。

(納沙布岬、2025年9月)

(根室市、2024年9月)
戦後81年を迎え、17,291人いた元島民は5,000人を切り、平均年齢は90歳を超えました。私自身も生きているうちにもう一度島で海から昇る太陽を見、風に靡く草原を歩きたいと願っています。一日も早く日露交渉が再開されるよう一緒に声を上げていただきたいです。
8月13日、プーチン大統領が択捉島を訪問しました。北方領土問題の解決は、抗議の応酬では解決しないと思います。日露両国は、困難を乗り越え対話の道を選ぶことを念じています。
(構成:落合けい)

