特集記事

労働者のつながりを復活させ、震災の記憶を伝える 
~福島・労働組合の挑戦~

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福島県の沿岸地域では、東日本大震災を機に労働者の多くが域外へ避難し、組合活動は一時、存亡の危機に立たされた。今も活動の厳しさは続いているが、震災で全国の労働組合から支援を受けたこともあり、労働者同士のつながりは大切だという思いも強い。組合活動の復活や、記憶の風化防止などに取り組む労働組合を取材した。

全町避難、住民のつながり維持に奔走 ボランティアに助けられ

連合福島双葉地区連合 近野悟史 前議長

2025年12月まで2年間、連合福島・双葉地区連合の議長を務めた近野悟史さんは、震災当時から浪江町役場の職員を務めている。ただ実際に地震に見舞われたのは、南相馬市の病院の待合室だった。半休を取って臨月に近い妻の妊婦健診に同行していたのだ。
「大きな揺れに『大変なことが起きた』と急いで浪江に戻り、私は役場で被災者対応に入りました。妻はつてをたどって埼玉県に避難し、約1カ月後、長女を無事出産しました」

翌日、東京電力福島第一原子力発電所の事故によって全町避難が指示され、近野さんは移動に使うバスの手配などに追われた。「津波と原発事故の混乱で、住民への情報提供も十分とは言えない中、役場までもが避難してしまうのはとても心苦しかった」と振り返る。

住民は全国に散り散りになり、避難生活は長期化した。近野さんは東京や北海道など各地で町民の集会を開き、避難先でも町民のコミュニティを維持する仕事に当たった。
「当時は多くの人が、何も分からず知り合いもいない土地でつらい生活を強いられていました。このため、町民の集まる場を作るだけで喜ばれました」

一方、近野さんら行政職員も人手不足、ノウハウ不足に苦しんだ。義援金をはじめとした各種支援制度の手続きに加え、復興フェーズに入ってからは産業団地の造成や農地の再生など、これまで経験したこともない業務が大量に発生したためだ。
「目の前の仕事をひとつひとつ、必死にこなすことしかできませんでした」

そんな中で、全国から派遣された労働組合のボランティアには非常に助けられたという。
「特に自治労のボランティアには、混乱期に義援金の配布など業務量が急増した部署をサポートしてもらいました。連合をはじめとした多くの労働組合のボランティアにも、がれき撤去や炊き出しなどの支援をいただきました」

「帰りたくても帰れない」 避難先に定住、一方で移住者も

浪江町では、震災前に2万人を超えた町民が「ゼロ」になった時期もある。2017年以降、避難指示が段階的に解除され住民が帰還し始めてはいるものの、実際に住んでいる人は移住者を含めても、2025年時点で約2200人に留まる。

受け入れる町のインフラも、まだ整ったとは言い難い。農地の再生率は3割ほどに留まり、町の診療所が医師の確保に苦労するなど、医療体制にも課題は残る。介護に関しては入所型の介護施設が町内になく、要介護度の高い人は浪江に帰ってくるのは難しいのが現状だ。子どもの教育の面でも、小中学校はあるが町内唯一の高校は休止中で、高校に進学したら町外に通学せざるを得ない。

復興予算がいわゆる「箱もの」の建設に使われ、突如、真新しい施設がぽつんと建つ、といった光景も見られる。近野さんは「建物の建設は目的ではなく復興のきっかけ作り。建物を活用しつつ雇用をつくり出し住む人を増やして、将来も町を持続させるための策を講じなければいけません」と、声に力を込めた。

震災から15年もの年月が経つ間に、避難先で定住するようになった人も多い。近野さん自身も住民票は浪江町に置いているが、自宅はいわき市にある。実家は帰還困難地域にあり帰るのは難しく、「子どもたちは残念ながら、すっかり『いわきっ子』になってしまいました」と苦笑する。
「子どもたちの学校のことや家のローンもあるので、今から浪江に戻り生活を変えるのは簡単ではありません。避難生活が1、2年だったら帰れたかもしれないですが…」

労働者の集まる場は大事 組合活動を絶やさない

一方で、町には明るい兆しも見られる。近野さんは現在、産業振興課で企業誘致などを進めているが、国の手厚い支援もあって、工場立地や起業家の移住などの動きが広がっているという。こうした結果、町内居住者の約3割は新規の移住者が占めるようになり、若い世代も少しずつ増え始めた。町役場職員も、町内に住む人の割合が少しずつ高まっている。
「1年ほど前、震災後初めて町内で高校生のカップルが歩いてるのを見ました。その時、『やっとここまで来た』と少し感動しました」

域外に住む町民も、多くが住民票を浪江町に残しており、住民登録をしている人は1万4400人に上る。近野さんは「住民票を移さなくても、避難先の行政サービスが受けられることも一因ですが、町民として浪江とつながっていたいという思いも大きいと思います」。

ただ、組合活動についてはまだ「通常の活動ができる状態とは言えない」と話す。浜辺の清掃活動などのイベントを企画しても、町外で暮らす一般の組合員らを集めるのは難しく、「どうしても役員が活動の中心になってしまいます」。
「震災直後は生きることに精一杯で組合活動どころではなくなり、活動がいったん途切れてしまった。そこに地理的なハードルが重なり、労働者を再び組織することも難しくなっています」

地区連合役員にしても、双葉郡内に留まらずいわき市や南相馬市など地区内外に散らばり、打ち合わせをするのも一苦労だという。それでもやっと2024年、小規模ながら双葉地区独自のメーデーを復活させることができた。
「私自身、連合の活動を通じて他の産業別労働組合の人と出会えたのは、とてもいい経験でした。組合活動がなくなれば、労働者が集まる場も先輩たちが受け継いできたノウハウも失われてしまう。とにかく活動を持続させていきたいと考えています」

記憶を風化させない JP労組の取り組み

JP労組福島連協いわき支部 今憲一支部長

震災で468人が犠牲となったいわき市では、労働組合が震災を風化させないための取り組みを行っている。ここではJP労組の取り組みを紹介しよう。

同市は市民が大きな被害を受けると同時に、原発事故の被災地域から大勢の住民が避難した。仮設住宅が次々と建設され、郵便局員は急増する郵便物の仕分けや配達に追われた。

こうした状況を受けてJP労組は、いわき市など中長期的な支援が必要な被災地支部と全国の地方本部をマッチングし、継続的な支援を行った。いわき支部のパートナーとなったのは東海地方本部(以下、東海地本)だ。JP労組福島連協いわき支部の今憲一支部長は「震災当初、生活再生や業務過多の中で疲弊していた組合員は、東海地本の物心両面にわたる支援を受けてとても元気づけられました」と話す。

2011年秋には、東海地本の組合員がいわき支部の組合員と家族を励まそうと、バスを仕立てていわき市を訪れバーベキュー会を開いた。またいわき支部の組合員と家族を東海地方に招き、海遊びなどのイベントも開催してくれたという。両地域のつながりは今も続き、新年の「旗開き」などには、お互いの組合役員が出席している。今さんらいわき支部の役員は、「被災当事者としての役割を果たす」として、招かれるたびに震災について東海地本の人たちに被災の教訓を語っている。

一方で今さんは「被災地ですら、組合員の危機意識はかなり薄れているのではないか」と心配している。震災が「600年に1度の大災害」と言われたことで「生きている間は、もうあれほどの災害に見舞われることはないだろう」という予断も感じられるという。
「地震はいつ来るかわからないし、津波は外国の地震によって起きることもある。危機意識は常に持ち続けなければいけないと思います」

このため組合員や家族を対象に、津波被害に見舞われた薄磯地区の清掃活動と、震災伝承みらい館の見学などを定期的に行っている。バーベキューなどレクリエーション要素の強いイベントでも、災害時の炊き出しをイメージするよう伝えるなど、機会をとらえて震災への『備え』を意識してもらおうとしている。
「被災当時、職場にいなかった若い職員も増える中で、災害時に自分の命をまず最優先に守ることが大事だと伝えるのは、重要な組合活動の一つです」

今さんは震災当日、職場の屋上から近くの川が津波で激しく逆流するのを見て「自然のエネルギーには太刀打ちできない」と痛感した。ただ15年間でここまでの復興を成し遂げた人間もまた強いと感じるようになった。
「備えの大切さと人間のしたたかさ、両方を風化させないためにも、震災の記憶を伝え続けなければいけないと思います」

(執筆:有馬知子)

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