台東区の浅草を散策した。今回は浅草寺(せんそうじ)と今年の大河ドラマの主人公、蔦屋重三郎(蔦重)のゆかりの地を巡ってみた。
浅草は、江戸時代から明治以降も庶民の盛り場・娯楽場として発達し、現在は全国有数の観光地となっている。1873年には境内が「浅草公園」に指定された。1890年には商業施設と展望塔を兼ねた12階建ての「凌雲閣(通称・浅草十二階)」が完成し、当時の日本で最も高いモダンな建築物として浅草を代表する顔となった(前年の1889年には、大阪にも「凌雲閣」が建設された)。
雷門から入った長さ約250mの表参道には約90店の「仲見世」があるが、その前身である商店は、江戸時代中期前半の1685年には設けられていたという長い歴史がある。「雷門」は通称で、右に風神像、左に雷神像が安置されていることから正式には「風雷神門」という。現在の雷門は1960年に再建された。「経営の神様」との異名を持ち、晩年には「松下政経塾(立憲民主党の野田佳彦衆議院議員は1期生、国民民主党の深作ヘスス衆議院議員は36期生など多くの議員を輩出している)」を立ち上げ、政治家の育成にも意を注いだ実業家の松下幸之助が病気平癒に報いて寄進したものだ。雷門に下がる大提灯は、松下電器産業(現パナソニック)が寄贈したものだ。
1945年3月10日の東京大空襲で国宝であった本堂(観音堂)や五重塔などが焼失したが、本堂は1958年に、五重塔は1973年に再建された。浅草の中心的存在の金龍山浅草寺は、創建の由来が飛鳥時代に遡る都内最古の寺院で、初詣では毎年多くの参拝者が訪れ、常に全国トップ10に入っている。2月になっても大勢のインバウンドで賑わっていた。

右上:浅草寺・仲見世通り
左下:浅草寺・五重塔と宝蔵門(仁王門)
浅草寺の横に台東区民会館がある。その9階に「べらぼう 江戸たいとう 大河ドラマ館」が2月1日に開館(期間は2026年1月12日まで)した。蔦屋重三郎は、江戸時代中期後半の1750年に新吉原(現在の台東区千束)に生まれ、22歳で貸本屋から書店「耕書堂」を開業、『吉原細見』という遊郭・吉原のガイドブックが大ヒットし、その後も斬新な発想と卓越した行動力で次々とヒット作を生み出し、33歳で日本橋にも開業した。平賀源内をはじめ多くの文化人と交流を深めるとともに、後に美人大首絵で評判となった喜多川歌麿や、役者絵で人気を博した東洲斎写楽、『富嶽三十六景』を描いた葛飾北斎などの化政文化を代表する作家たちを見出し、「江戸のメディア王・出版王」として大成功を収めた人物と言われている。

江戸時代中期前半の元禄時代には、大坂・京など上方の都市を中心に栄えていった元禄文化(浮世草子の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門などが活躍)があった。江戸時代後期の文化・文政時代の最盛期には、江戸を中心として文化・芸術が開花し発展した化政文化で、浮世絵や滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などの滑稽本、歌舞伎、川柳などが流行した。
台東区は大河ドラマ館の来館者専用で、無料・予約不要・途中乗り降り自由の蔦重ゆかりの地を巡る循環バスを2台、20分置きに運行している。大河ドラマ館発で早速乗車してみた。東浅草の正法寺(しょうほうじ)は、1797年に47歳で病没した蔦重が埋葬された寺で、墓は戦災等で失われたが、復刻した墓碑と顕彰供養碑が建てられている。エレキテル(静電気の発生装置)を復元した平賀源内は発明家だけでなく、蘭学者や戯作者など多彩な才能を持ち、蔦重から『吉原細見』の序文執筆を依頼された。殺傷事件を起こして獄死し、台東区橋場の総泉寺に葬られ、寺は後に移転したが、墓のみが残されている。蔦重が開業した書店のあった台東区千束には、「耕書堂」を模した観光施設「江戸新吉原・耕書堂」が開設(期間は2026年1月12日まで)されている。元浅草の誓教寺(せいきょうじ)には、1849年に88歳で亡くなった葛飾北斎が埋葬されている。生涯に93回の転居を行うなど奇行に富んだ人とされ、墓には雅号の1つでもある「画狂老人卍」と刻まれている。
蔦重の墓碑には、親交のあった石川雅望が、蔦重の人となりを記した碑文が刻まれている。「志、人格、才知が殊に優れ、小さな事を気にもせず、人には信順(信頼・信義・誠実)をもって接した。その巧思妙算(発想力や人を結びつける力と世事物事を見通す計算高さ)は他の及ぶところなく頭抜けていた。」…私もこうありたいと思った。

右上 :東浅草の正法寺「蔦屋重三郎の墓碑と顕彰供養碑」
真ん中:元浅草の誓教寺「葛飾北斎の墓」
右下 :台東区千束の「耕書堂」を模した観光施設「江戸新吉原・耕書堂」
