「連合アタッシェ」に聞く(ザンビア編)
大統領・大統領補佐官と打合わせ、TICAD事務局も担務
小規模大使館ならではの幅広い仕事を経験

連合は外務省との人事交流の一環として、労働組合のメンバーを各国大使館に派遣している。「連合アタッシェ」と呼ばれる派遣員は、海外でどのような役割を果たしているのだろうか。
第2回目はザンビアに赴任した山口潤さん(東京電力労働組合から派遣、現在は連合国際政策局に所属)。小規模な大使館だからこそ、部署横断でさまざまな経験ができたという。

連合アタッシェとは
外務省と民間の人事交流制度の一環として、連合を通じて労働組合の役職員を各国の在外公館に派遣する制度。1981年に創設され、初代連合アタッシェは、タイに派遣された髙木剛元連合会長。なおアタッシェ制度は各省庁の職員や民間企業の社員らにも導入されており、原則3年の任期で各国に送り出されている。

「プリンタ故障」で外交官IDが発給できない?! 
3カ月で「怒り」を使い果たす

-連合アタッシェとして派遣された経緯を教えてください。
アタッシェ勤務は以前から希望しており、国際労働財団(JILAF)に派遣されていた時に産別・単組から打診を受けました。志望国にザンビアを選んだのは、連合アタッシェ帰国報告会でザンビア赴任経験者が「大使館の規模が小さく、臨時の大使代理などさまざまな仕事を経験できた」と話すのを聞いたからです。単組の役員から「なぜ小規模なザンビア大使館がいいのか?」と怪訝な顔もされましたが「一度しかない機会、幅広い仕事を経験したいので、ぜひ行かせてください」と説得しました。
赴任が決まってから外務省で研修を受けましたが、英語ネイティブレベルのクラスメートに迷惑を掛けないよう、毎日悔しさやプレッシャーと戦いながら学んだことは忘れられません。

-現地ではどのように、生活基盤を整えたのでしょうか。
住まいや車は、前任者から引き継いだので問題はありませんでしたが、生活に不可欠な行政手続きに苦労しました。まず運転免許の取得や銀行口座の開設に必要な「外交官ID」を申請したところ、「プリンタ故障」で手元に届くまで約2カ月かかったんです。やっとIDカードが発給されて運転免許証を作ったら、事務処理のミスでオートマ車限定に。とどめは銀行口座で「口座は開いたが、カードの在庫がないのでキャッシュカードを作れない」と言われてしまい、生活費が枯渇するんじゃないかと気が気ではありませんでした。
余談ですがその後、近隣国の南アフリカでもプリンタ故障のため、全土で免許発給が2カ月間止まるというニュースを見て、G20加盟国でこの状態ならザンビアも仕方がない、と妙に納得させられました。
派遣前に「外交官は1年目、本国との違いや現地の理不尽な対応に怒り、2年目に諦め、3年目で好きになる」という言葉を聞いたことがあります。私は最初の3カ月で怒りの感情を使い果たし、1年目で早くも諦めに至りました。その分「好き」の期間が長くなり、かえって良かったのかもしれません。

39年ぶりの閣僚受け入れ 「ザンビアペース」に苦労も

-現地ではどのような仕事をしていましたか。
主な業務は、ザンビアの内外政に関する情報収集と分析でしたが、実際は主業務以外の仕事が、7割くらいを占めたと思います。
赴任1年目に西村康稔経済産業大臣(当時)が、3年目に茂木敏充外務大臣が相次いでザンビアを訪問しました。ザンビアに日本の閣僚を迎えるのは39年ぶりで、大統領との面会の手配などの調整などに追われました。大きな大使館なら要人受け入れに慣れ、ノウハウも確立されているでしょうが、ザンビア大使館では誰も経験したことのない事態で、何もかも手探りで進めなければなりませんでした。
また2年目は、日本とザンビアの外交関係樹立60周年の節目で、両国合同で実行委員会を作ってさまざまな記念イベントも行いました。私も事務局を務めつつイベントの手配や運営に関わりましたが、特に低所得層の人が多く住む地域、いわゆるスラムの広場で、和太鼓フェスを開けたことが印象的でした。和太鼓奏者と現地の太鼓の奏者が一緒に演奏したり、住民が音に合わせて踊ったりと、本当に温かい雰囲気で、音楽は国境を越えて人をつなぐ力があると実感しました。

-現地の人たちとの仕事をすることに、苦労はありましたか。
ザンビア人は穏やかで自己主張もさほど強くなく、国民性は日本人とよく似ています。一方、事務処理のスピードはかなりスローで、仕事にあたって現地政府と本国との板挟みになり、ストレスも感じました。現地政府に「2週間以内に回答を」と要請しても1カ月間なしのつぶてで、担当者の執務室へ直談判に行くのも日常茶飯事です。ある時はうずたかく積まれた書類の中腹に、私が送った要請文書が埋もれていました。
時間感覚もかなり緩やかで、大統領が式典に2時間以上遅れるのも当たり前。面白いのは大統領より遅く来る関係者は少ないことで、その微妙な空気の読み加減には感心させられました。

-最も印象に残った仕事は何でしょうか。

2025年に応援要員として、横浜市で開催されたアフリカ開発会議(TICAD9)の事務局に加わったことです。イベントのサブロジ総括として、担当する国々から来日するアフリカ諸国の閣僚らについて、全体総括を担いました。多い時には10カ国以上を担当して、滞在場所の手配や会場案内、トラブル対応などに当たり体がいくつあっても足りないほどの忙しさだったうえ、何時間も無理な要求をし続ける随行員を説得するなど、タフな対応もしばしばでした。またチーム内では比較的年齢が上だったので、外務省の若手職員を集めて深夜にささやかな食事会をするなど、現場の緊張を和ませチームワークを発揮できる環境づくりにも努めました。大変でしたが、日本が主催する国際会議の最前線に立てたことは、とても貴重な経験でした。苦労をともにしたメンバーとも「同志」のように親しくなり、今でもことあるごとに集まっています。

雄大な大自然、脆弱なインフラ

-プライベートはどのように過ごしていましたか。
アフリカと言えば厳しい気候を想像するかもしれませんが、ザンビアは標高が高いため暑すぎず寒すぎず、水資源も豊かで紛争や政治的な独裁もありません。
治安も比較的いいのですが、スリや泥棒は多いので、特に夜はそれほど気軽に出歩くことはできませんでした。このため終業後は主に自宅で過ごし早めに寝て、日本との時差対応も兼ねて早朝から仕事をしました。その分、休日に隣国ボツワナや南アフリカ、ナミビア、ジンバブエなどへと足を伸ばし、サファリでゾウ、カバ、ライオンなどの動物を撮影するのが楽しみでした。子連れのゾウに威嚇されて、ひやひやしながら車をバックさせたこともあります。
現地の食事は、トウモロコシの粉を練って丸めた「シマ」と、肉のトマト煮のようなおかずを一緒に食べるスタイルが主流。ただ「シマ」がお腹で膨れて苦しくなることもあったので、仕事に余裕のある時だけ食べていました。
インフラは非常に脆弱で、川の取水ポンプが壊れて首都が2ヶ月間断水したり、少雨で水力発電が稼働できず、1日20時間を超える停電が4、5カ月続いたりしました。ただ国民はこうした事態に慣れていて、良くも悪くも高度なインフラに依存しきってはいない様子でした。

-連合アタッシェの仕事を通じて、得たものは何でしょうか。
ザンビアでは日本とレベルの違う「予測不可能」な事態が毎日のように起こりました。早朝に大使が各国大使を招いて朝食会を開く時、注文していたパンを開始30分前に店に取りに行ったら、「停電で焼けなかった」と言われて唖然としたことがあります。日本だったら必ず、店舗から事前に大使館へ報告とお詫びの連絡が来るでしょう。この時は「ない」と言われて2分後には、早朝に在庫がありそうな別のカフェへと車をスタートさせ、パンを買い占めて事なきを得ました。緊急時に知識や記憶を総動員し、臨機応変に行動する瞬発力は非常に鍛えられたと思います。あとは日本で起こり得る「想定外」の上を行く事態を、念頭に置くようになったことでしょうか。日本ではそこまで「想定」しても無駄になるかもしれませんが。
また当初の狙い通り、上席代理として大統領、大統領補佐官や国際機関幹部と打ち合わせや面談をするなど、責任の重い仕事を数多く経験できました。そのために、館内で日ごろの関係を築きながら、できることにはすべて志願して手を挙げましたし、それが任せてもらえたのも、小規模なザンビア大使館ならではだったと思います。

働きぶりをイメージしづらく、なかなか手を挙げにくいかもしれませんが、これからも志ある後輩がザンビア大使館で活躍をしてもらえれば、これ以上の喜びはありません。

(文 有馬知子)