「連合アタッシェ」に聞く(ミャンマー編)
ジュニア柔道大会開催、地震対応に尽力 
軍当局の支配下に生きる人々の声を、活動に反映

連合は外務省との人事交流の一環として、労働組合のメンバーを各国大使館に書記官として派遣している。こうした「連合アタッシェ」が、現地でどのような活動をしているのか。経験者に話を聞いた。
第1回は2026年5月までの2年間、国際労働財団(JILAF)から連合本部に所属し、連合アタッシェとしてミャンマーに派遣され、広報文化を担当していた加藤岳さん。軍当局の支配下という制約の多い中での仕事に加えて、大地震も経験した加藤さんは、現地で何を見て、どのように行動したのだろうか。

連合アタッシェとは
外務省と民間の人事交流制度の一環として、連合を通じて労働組合の役職員を各国の在外公館に派遣する制度。1981年に創設され、初代連合アタッシェは、タイに派遣された髙木剛元連合会長。なおアタッシェ制度は各省庁の職員や民間企業の社員らにも導入されており、原則3年の任期で各国に送り出されている。

二つ返事で赴任を承諾 子どもたちの柔道大会を開催

-ミャンマーに派遣されることになった経緯を教えてください。
前職のJILAFの上司に打診されて、「行かせて下さい」と即答しました。職場では長く途上国の労働組合のリーダーを支援しており、私自身も2009年、ミャンマーの組合関係者を日本に招く事業を担当したことがあります。当時は本格的な民主化が始まる前だったが、来日した人たちは国を立て直そうという意欲に溢れていました。こうした経緯もあって、自分の目でミャンマーを見て肌で感じ、少しでもできることをしたいと考えたのです。上司からは「即決せず家族と相談して決めなさい」と言われましたが、妻は台湾人で海外赴任に抵抗がないうえ、私が昔から海外勤務を希望していたことも知っていたので喜んでくれました。
通常、アタッシェの任期は3年ですが、ミャンマーではクーデターの余波で前任者が4年赴任したため、私の任期は2年でした。短期間でもあり単身赴任するつもりだったのですが、「子どもに海外生活を経験させたい」という妻の強い希望で、大学生の長男だけ日本に残して、妻と当時中学3年の長女を現地に帯同させました。

-現地ではどのようなお仕事をしたのでしょうか。
配属された広報文化班の目的の一つは、ミャンマーの人たちに日本の文化に触れてもらい「日本ファン」を増やすことです。通常は現地政府と連携して活動するのですが、ミャンマーの場合、日本政府が軍当局と距離を置いているため、現地政府の協力は得られません。大使館のSNS発信を通じてミャンマー国民にアプローチし、日本へ留学生を送り出す人材交流事業などに取り組みました。
平時なら日本関係のイベント開催も大きな仕事ですが、2021年のクーデター以降、社会が緊迫して実施が難しい情勢が続いていました。ただ私が赴任して間もなく大使が交代したこともあり、「厳しい情勢の中でもミャンマー国民のためにできることを実行していこう」という方針が掲げられました。「もう民主化は難しいのではないか」という諦めが社会に蔓延する中、日本の伝統文化を通じて人々が束の間でも「楽しい」「嬉しい」といった人間的な感情を沸き立たせられるような場を提供し、少しでも国民に夢や希望を感じてもらいたいという思いがありました。
そこで、柔道を習っているミャンマーの子どもたちをヤンゴンに集めて「ジュニア柔道ジャパンカップ」を開催したのです。日本企業を回ってスポンサーを募り、日本人学校に会場を提供してもらうなど、多くの在留邦人や組織の助けを借りて開催にこぎつけました。当日は子どもたちが勝って大声で喜び、負けて泣く姿や、子どもを応援する親たちの様子を見て、「やって良かった」と思いました。

“Help Me”被災地からのメッセージ 過去に来日した組合関係者と再会

-2025年3月の大地震も経験されました。どのような活動をしたのでしょうか。
日本政府が被災地支援として、国際緊急援助隊医療チームや支援物資を積んだ自衛隊の輸送機を派遣したので、大使館員総出で受け入れ準備に当たりました。しかしミャンマー政府との関係上、当初は支援チームが入国できるかも定かではなく、ベースキャンプの設置場所もなかなか見つからないなど多くの苦労がありました。私自身も、連日40度超の酷暑と過労が重なり、急性胃腸炎で病院に運ばれてつらい思いをしました。
ただ無事に支援チームが到着し私も被災地入りして、現地の人に「日本の支援を待っていた」と言われた時は、胸が詰まり、苦労が報われた思いでした。
被災地では日本の支援の様子を撮影し、SNSで連日発信しました。情報は生ものなので、それぞれの出来事を正確かつスピーディーに伝えるよう努めました。また現地の人に共感してもらえるよう、ミャンマー語の短い動画を多用するなどの工夫もしました。

-現地の人との、印象的な関わりなどはありましたか。
地震の数日後、SNSに突然“Help Me”というメッセージが入りました。過去にJILAFの招へい事業で来日した元組合役員の女性が、被災し助けを求めてきたのです。何回かやり取りする中で、がれきの前に立つ、驚くほどやつれた本人の写真が送られてきました。
被災地で関係者に聞いて回り、この女性に会うことができました。彼女は涙ながらに私をハグし、「ミャンマーでの生活はどうか」と逆に気遣ってくれました。私も握りしめていたお見舞い金と、「頑張ろう」というメッセージを描いた日本の国旗を渡しました。彼女に会えただけでも、ミャンマーに行った意味はあったと感じています。

「政策の芽は現場に」 労働運動を業務に活かす

―労働組合の人間が大使館に入ることに、どんな意味があると思いますか。
JILAFや連合では「労働政策の芽は全て現場にある」と教えられてきました。このため、大使館でも現地の人や他国の大使館職員、在留邦人など多くの人に会い、彼らの声を聴きながら活動を進めていくことを意識しました。現場起点で課題を解決する姿勢は、労働組合出身者ならではかもしれません。
組合で人間関係の構築に取り組んだ経験を生かし、日本人会のスポーツ大会に大使館員チームで参加するなど、在留邦人のネットワークづくりにも努めました。ジュニア柔道ジャパンカップも、こうしたネットワークのおかげで開催できました。
省庁出身のアタッシェは公務のプロであり、事務処理能力や調整力は非常に優れていますが「省庁の代表として派遣された以上、失敗できない」というプレッシャーから新しいことに取り組みづらい面もあると思います。一方で連合アタッシェの私は、しがらみも少なくさまざまなことに挑戦できて、同僚たちと良い役割分担になっていたのかもしれません。

-休日などプライベートはどのように過ごしていましたか。
車の移動が多く運動不足になりがちなので、日本人会のフットサル部や柔道部などのサークル活動に参加していました。娘がギターを始めたのをきっかけに、私も学生時代に演奏していたベースを再開して親子でバンドを組み、演奏を通じて現地の人と交流できたのもいい思い出です。ちなみにミャンマーは、中国に次いで日本語能力試験の受験者が多く、妻はボランティアでミャンマー人に日本語を教えていました。
食事は会食も多かったので、現地のレストランをよく利用しました。現地料理のおすすめは米の麵をベースにした「シャンヌードル」。もちもちして、辛すぎずおいしいです。
停電が多く、通信が規制されるなど生活の不便さはありましたが、日本の感覚を引きずっているからイライラするのだと気づき、比べるのをやめたら気が楽になりました。ただ外国人向け住宅の家賃や、娘の学費などの生活費はかなりかさみ、やりくりには苦労しましたが、これも経験への投資だったと思っています。

-連合アタッシェを目指す人へ、メッセージはありますか。
単に「外交官の経験」をしに行くのではなく、自分なりのミッションを設定してほしいと思います。ミャンマーでは、労働組合関係者との接触は相手が拘束されるリスクもあってできませんでしたが、他の国なら現地の労働組合関係者と人脈を築き、帰国後の組合活動に役立てることもできるでしょう。私自身は、制約が多い中でもネットワークづくりやイベント開催など、自分にできることを考えて精一杯取り組みました。ミャンマーでの貴重な知見や経験を、今後の国際労働運動に活かせればと考えています。
ミャンマーでは今も空爆で命を落とす人がおり、徴兵制や言論統制も続いています。徴兵されるのを待つか、民主化組織に入るか、国外に脱出するかなど、国民の選択肢は限られています。国内の貧富の格差も広がりつつあり、目の前の生活に必死です。このような状況を目の当たりにしてきたからこそ、一日も早くミャンマーに平和が訪れ、すべての人がありのままに生きられる社会を取り戻すことを願っています。

(文 有馬知子)