最低賃金、全都道府県で1000円台到達
政府審議会会長が「引き上げの議論」を明かす

10月から順次、都道府県で新しい地域別最低賃金の適用が始まった。今年は全都道府県で時給1000円を上回る一方、適用が始まる日(発効日)を2~5カ月遅らせる県も見られる。引き上げ額の「目安」を示す政府の中央最低賃金審議会(中賃)で、会長を務めた藤村博之・独立行政法人労働政策研究・研修機構(JILPT)理事長に、最賃審議を巡ってどのような議論が行われたかを聞いた。

藤村 博之(ふじむら ひろゆき)
独立行政法人 労働政策研究・研修機構(JILPT)理事長
法政大学名誉教授
1984年名古屋大学大学院経済学研究科博士課程中退、
1990年滋賀大学経済学部助教授、1995年京都大学博士(経済学)、1996年滋賀大学経済学部教授、1997年法政大学経営学部教授、2004年法政大学大学院イノベーション・マネジメント研究科教授等を経て、2023年4月より独立行政法人 労働政策研究・研修機構(JILPT)理事長、法政大学名誉教授。
著書に『新しい人事労務管理』(有斐閣)など。
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頻繁に購入する品目に着目 値上げ率踏まえ目安を議論
-今年度の中賃は、全国加重平均で過去最大となる63円(昨年度は51円)の引き上げ目安額を提示し、結果的に全都道府県の最賃引き上げを後押しすることになりました。審議会ではどのような議論が行われたのでしょうか。
中賃は連合など労働者の代表と、経団連など経営者の代表が互いの考えを主張し、私たち公益代表が両者の意見を調整する形で合意形成していきます。今年は生計費の上昇に伴い、それに見合う賃金の引き上げ率はどのくらいか、ということが焦点になりました。このため家庭が年間15回以上購入している品目の値上がり率や食品価格の上昇、さらに都道府県からのヒアリングや企業視察などの結果も踏まえて議論しました。
公益委員としては当初から、物価上昇をカバーするためには6%程度の引き上げが必要ではないかと考えていました。一方、経営者側は5%台後半を主張していましたが、最終的にはデータを示して経営者側にこれだけの賃上げが必要だという理解を求め、引き上げ率6.0%、金額換算し63円で合意できました。
-議論の取りまとめにあたって、最も苦労した点は何でしたか。
経営者側からは、10月に新しい最賃を適用すると、パートタイマーの年収が106万円、130万円といった、社会保険料の支払い義務が生じる「年収の壁」に達する時期が早まるとの懸念が示されました。そうなると働き手が壁を超えないよう就業調整をするため、年末の繁忙期に人手不足が生じるとして「発効日を遅らせてほしい」という強い要望が出されたのです。公益側もこれを受けて、地方最低賃金審議会に対して「発効日について十分に議論を行うよう要望する」という見解を出しました。
こうした結果、いくつかの県で発効日が新年1月へと後ろ倒しされましたが、秋田、群馬の両県は3月からと大幅に遅れることになりました。発効日があまりに遅れると、10月から最賃が上がる地域との格差が広がってしまうため、望ましくないと思います。
また最賃の議論とは別になりますが、就業調整の一因である第3号被保険者制度の見直しも、あわせて進める必要があるでしょう。
地域企業の経営難 「最賃を上げない」ではなく別の政策で支援を
-地方審議会では、経営者側が強く反発し採決に応じなかった県もあると聞きます。人件費の増大が経営を不安定化するという経営者側の懸念に対して、どのように理解を求めればいいでしょうか。
地方審議会で、労使のいずれかが採決で反対するケースはしばしば見られますが、採決にも応じず席を立つ、という行動にはそれ以上に強い経営者側の意思を感じざるを得ず、地方の経営者の危機感がそれだけ強いことがうかがえます。
ただでさえ今、求人の際は最賃に100円ほど上乗せしなければ、人が集まらなくなっています。募集時給を上げれば既存の労働者の賃金も上げる必要もあります。最賃の大幅引き上げは経営を圧迫するという経営者側の訴えは理解できる面もあります。
ただ時給の上昇は、経営者が対応すべき「交易条件の変更」の一つとも言えます。昨年視察した秋田県の縫製工場は、補助金を利用してAIを搭載したドイツ製の裁断機を購入し、布のロスを最小限に抑えるなどして高級ブランドから受注を得ていました。生産性と技術力を高める努力に対しては、政府も支援を用意していますし、それらをうまく使った企業は賃金を引き上げても雇用を維持しています。こうした事例を示すなどして、企業の理解を求めなければいけないと思います。
-最賃の引き上げに対応できないような「ゾンビ企業」は、市場から退出すべきだ、との意見もあります。
経済学上はそうかもしれませんが、個別企業を見ると問題はそう単純ではありません。賃上げが難しい企業の労働者は中高年が多い傾向にあり、倒産した時の労働移動が円滑に進まない恐れもあります。また中賃で経営者側から「中山間地域のスーパーなどは、最賃を上げると人件費を賄えず閉店に追い込まれ、地域に買い物難民が発生してしまう」といった意見もありました。こうした企業を「ゾンビ」と切り捨ててしまうことは、地域経済にマイナスに働く恐れもあり得策とは言えません。ただこうした問題については「最賃を上げない」ことで解決するのではなく、別の施策を講じることで地域経済を守っていくべきでしょう。
「理不尽なまでの賃上げ」求めることも時には必要
-最低賃金については、政府が2020年代に全国加重平均1500円を達成するという目標を打ち出しています。今後の賃金水準について、どのように考えますか。
公益委員としてではなく一研究者として、労働者が一定の生活水準を維持できる「リビングウェイジ」を実現するには、最低でも時給1500円は必要だと考えていますし、政府としてこうした目標を掲げることには意義があると思います。労働者側も「最賃が1000円を超えて良かった」と一息つくことなく、引き続き引き上げを求めなければいけません。経営者側は目標設定に慎重ですが、中には目標が示された方が、今後の展開を予測できるようになり対応もしやすい、との声もあります。
ただ2020年代中にこの数字を達成するには、最賃を7.3%ずつ上げる必要があり、過去最大である今年の引き上げ率でも追いつかない計算です。引き上げ率のベースとなる時給が上がれば、同じ6%でも引き上げ額は70円、80円と上がりますが、このことを計算に入れたとしても、達成時期については議論の余地があるでしょう。
-デフレからインフレに転じつつある局面で、公益委員の役割は変化しているのでしょうか。
公益委員として最も大事にしているのは、たとえ労使の主張に大きな隔たりがあっても「賛成はできないが反対はしない」レベルに議論を詰めていき、合意を形成することです。そのためには春闘の賃上げ率や6月までの物価上昇率など、実際のデータを示して納得感を得ることが重要です。
インフレ局面では、実績ベースで議論すると賃金が物価上昇に追いつかないという意見もあります。しかし最賃は労働者の生活を支えるだけでなく、企業にとっては経営への大きな挑戦であり、「これから物価がこれくらい上がるだろう」という予測に基づいて最賃を引き上げて倒産や失業が増えたら、経済に悪影響を与えかねません。実績のデータをもとに、経営者側が容認できるぎりぎりの線を探りながら、賃上げを着実に進めていければと考えています。
-連合・労働組合に期待することを教えてください。
労使合意は重要ですが、労働組合はあくまで、生活に必要な賃上げを求め続けるべきです。例えば春闘でも、企業別労働組合の多くは、暗に経営者側の財務状況を踏まえて「これくらいなら出せるだろう」という数字を提示していると感じます。しかし本来は、非組合員も含めた働き手の生活を向上させることを、要求のベースに置かなければいけません。
バブル後の不況期には、企業存続のため一時的に労働者側が経営者側と協調する場面もありました。しかし経済が正常化してからも、一部にはあたかも経営に参画しているかのような姿勢で交渉に臨む労組も見られ、要求内容も迫力を失ってしまっているように感じます。
全米自動車労働組合(UAW)は2023年秋の交渉で、米大手自動車メーカー「ビッグ3」に対して40%の賃上げを要求し、4年半で25%の賃上げを勝ち取りました。日本の労働組合も、時には経営者側が理不尽と思うような要求を辞さない姿勢を取り戻してほしいと願っています。
(執筆:有馬知子)