なぜ、今注目されているの?「年収の壁」の乗り越え方
「年収の壁」(以下、「壁」)とは、パートタイムなどで働く人の年収が一定額に達すると、社会保険料の負担が発生したり、企業の配偶者手当の支給対象外になることから、それを防ぐために労働時間を減らすなどの就業調整を行うことをいう。
特に、年収が130万円以上になると社会保険の扶養から外れ、公的年金の「第3号被保険者」や健康保険等の被扶養者でなくなり、自ら社会保険に加入することになる。さらに、配偶者の所得税の控除や企業の手当の支給などにも影響し、手取り収入が減少するケースもあるため、壁を意識して就業調整する人が多いと指摘される。
壁については、以前から女性の低賃金の一因になっているなどの問題が指摘されてきたが、ここにきて、その解消も視野に入れた議論が始まっている。社会保障審議会(厚生労働省)における次期年金制度改革に向けた議論では、社会保険の適用拡大が重要な論点の1つとなっている。また、社会保険制度における被扶養のあり方についても連合として今後議論する予定であり、これらは壁の解消にも大きく関わる。
壁が改めて注目されている背景には何があるのか。解消に向けて必要な視点は何か。永瀬伸子お茶の水女子大学教授と芳野友子連合会長が語り合った。
(季刊RENGO2024年春号転載)
永瀬伸子(ながせ のぶこ) お茶の水女子大学基幹研究員 人間科学系教授。
東京大学大学院経済学研究科修了。専門は、労働経済学、社会保障論。女性労働、家族形成、ワーク・ライフ・バランスなどを研究。
東洋大学経済学部助教授、お茶の水女子大学生活科学部助教授、同大学院人間文化研究科教授等を経て、現職。ハーバード大学客員研究員、コーネル大学客員研究員などを歴任。男女共同参画会議影響調査専門委員、政府税制調査会特別委員、 社会保障審議会統計部会臨時委員、統計委員会委員、社会保障審議会年金数理部会臨時委員、中央社会保険医療協議会公益委員、人生100年時代の結婚と家族に関する研究会委員などを務める。
著書に『少子化と女性のライフコース』(共編著、原書房)など。
芳野友子(よしの ともこ)連合会長
佐保昌一(さほ しょういち)連合総合政策推進局長
「年収の壁」問題とは?
佐保 本日はいわゆる「年収の壁」をテーマに対談をお願いしました。
永瀬 対談の機会をいただきありがとうございます。
芳野 永瀬先生には連合東京女性委員会の時代からお世話になっています。最初の出会いは、連合総研とお茶の水女子大学による「研究者と労働組合リーダーによる『労働組合におけるジェンダー平等に関する研究プロジェクト』」(2008年)でしたね。
永瀬 はい、プロジェクトを通して労働組合の様々な取り組みを学ばせていただきました。芳野会長は、当時から前向きにジェンダー平等の運動に取り組まれていて、連合会長に就任された時は本当に嬉しく思いました。
低賃金の要因は壁にもとづく就業調整
佐保 壁は古くて新しい問題とも言われますが、何が問題なのでしょうか。
永瀬 第3号被保険者制度が創設された1980年代半ば以前から、税の壁による就業調整の影響は指摘されてきました。私は「パートはなぜこんなに低賃金なのか」という問題意識から、1995年に「女性の就業選択について」と題する博士論文を書きました。パートで働く女性は、家庭責任と両立しやすいことの代償として低賃金を受け入れていると言われていましたが、それだけではなかった。女性は35歳以上となると正社員に雇用されにくい、というのもありましたし、さらに壁による就業調整が行われ、それがパートの賃金を引き下げていたんです。
芳野 その頃、私は単組の専従役員を務めながら、連合東京女性委員会で活動していました。当時、労働組合の女性たちの最大のテーマは「いかに女性が働き続けられるか」。1986年に男女雇用機会均等法が施行され、女性の職域は広がりましたが、結婚や妊娠·出産を機に退職する女性は多かった。育児休業などの両立支援制度が不可欠だと、その実現に取り組んでいました。
壁の1つの原因である第3号被保険者制度は、均等法施行と同時期に創設されました。「女性の年金権確立」が目的だと言われていましたが、性別役割分業を前提にした制度であり、働き方に中立的な社会保険制度への見直しが必要だという問題意識を持っていました。
永瀬 「ジャパン·アズ·ナンバーワン」と言われた1980年代、「日本型雇用」が高く評価されましたが、それは「日本型福祉」とセットでした。夫は長時間労働をいとわず仕事に励み、妻は家事·育児、介護を無償で引き受けつつ、パートで働く。第3号被保険者制度は、まさに日本型雇用&福祉を支える制度であったと思います。
芳野 当時は、子育てが一段落したら再就職するというコースが奨励され、女性の就業率はM字型でした。でも、再就職先は賃金の低いいわゆる非正規雇用しかなかった。
永瀬 私自身も、最初に勤めた会社を結婚退職しました。育児休業制度はまだなかったので辞めて、大学院に進学したんです。当時、欧米では急速に女性の社会進出が進み、性別役割分業を前提とする社会制度の見直しも急速でした。女性が働く社会への変化は時代の要請でもあると思いました。大学院時代、子どもを持ってもキャリアを持ちたいと思った私の思いは世界で共通なのではと思ったからこそ、日本の女性労働の分析をしたいと思いました。
芳野 1999年に均等法の改正がありました。連合は、雇用における性差別を禁止する法律にし、労働基準法の女子保護規定は撤廃して男女共通の労働時間規制を導入するという方針で臨みました。実は、その時、女性たちがもう1つ強く求めたのが「間接差別の禁止」でした。壁とリンクする配偶者手当が男女の賃金格差につながっている。間接差別として禁止するべきだと訴えたのですが、要求化できなかった。
永瀬 欧州の研究者に「配偶者手当」が壁をつくっているという話をしたら、「配偶者手当を実態として男性の給料に上乗せするというのは女性差別じゃないか」と指摘されましたが、労働組合の女性はきちんと「差別の問題」としてとらえていたんですね。
2000年に設置された「女性のライフスタイルの変化等に対応した年金の在り方に関する検討会」では、第3号被保険者制度や女性の低年金について白熱した議論が行われました。私も委員として参加していたのですが、連合の高島順子副事務局長(当時)が制度の問題点を鋭く指摘し、担当局長に「労働行政はパートを労働者としてみなしてきたんですか?」と畳みかけました。当時、「パートは主婦としての保護を受けているから、労働者ではない」という議論もあって、それに疑問を感じていた私にはものすごく心に響く言葉でした。
その後、男女共同参画局の影響調査専門委員として税制·社会保障の中立性をテーマに実証研究にも参加し、その成果が制度改革につながることを願っていましたが、壁問題の解決は何ら合意に至りませんでした。
芳野 男女共同参画基本計画に「個人のライフスタイルの選択に中立的な社会制度の検討」が盛り込まれた時、労働組合の女性たちもこの好機を逃してはいけないとネジを巻き直しましたが、意思決定の場に参加する女性は圧倒的に少なく、議論の俎上に載せることができなかった。そんな中で新たな問題が浮上してきました。
非正規雇用の急増とパートの戦力化
永瀬 雇用情勢の悪化による、非正規雇用の急増ですね。
芳野 はい。バブル経済が崩壊し、金融危機が広がり、大規模なリストラが実施され、正社員をいわゆる非正規雇用に置き換える動きが進みました。当時、労使でワークシェアリングの議論もされましたが、就職氷河期世代の就職難は本当に深刻でした。
永瀬 初職でも、不本意ながら派遣や契約社員として就職する人が急増しましたが、その賃金は家計補助を前提とした主婦パートの時給水準がベース。格差や貧困が社会問題になりました。
芳野 ただ、そういう中でパート労働の位置づけが変化していきました。1980年代の主婦パートは補助的な仕事を担っていましたが、1990年代後半以降、流通やサービスの職場では、パートが正社員と同様の基幹労働を担うようになり、数の上でも多数を占めていきます。
永瀬 そこでパートの均等·均衡処遇が課題になった。
芳野 労働組合においてもパートの処遇改善や組織化が課題になりました。
永瀬 私は、2001年に設置された厚生労働省の「パートタイム労働研究会」のメンバーでしたが、調査を行うと、「主に自分の収入で生計を立てている」パートの割合が男女ともに増加し、そうした人は正社員との処遇格差に納得していなかった。
従来の日本型雇用では、同じ仕事をしていても採用や人材育成のルートが異なる労働者の処遇は低く設定されてきましたが、非正規雇用が増加する中で不公平感が高まった。また私は、労働時間が短くても、専門性の高い仕事を責任を持って担えないと、育児をする女性が賃金上昇やキャリア形成を考えにくいから、そうした均等処遇が重要と考えていました。しかし、「正社員とパートの仕事を明確に分ければ、格差に納得する」という議論が出てきて、正社員とパートの仕事を分けるという方向に人事制度が進んだように思います。ようやく2019年の働き方改革法では、正社員と非正社員の格差の縮小をめざして「同一労働同一賃金」の概念が採用されました。しかしながら判例は、長期雇用の正社員といわゆる「パート」はたとえ一時的に同じ仕事をしていても「同一労働ではない」と定義する方向にあると感じます。
芳野 でも、それでは職場が納得しません。パートの基幹労働化が進んでいた企業では、労使で均等処遇のあり方を考え、賃金·処遇制度の見直しに取り組みました。また、男女を問わず優秀な人材を確保したいと考える企業では、賃金制度に成果·能力主義の要素を導入する一方、配偶者手当などの属人的な要素を見直し、子ども·子育てに関わる福利厚生を充実させるなどの取り組みを進めました。 永瀬 労使の取り組みこそが、職場を変える力になるんですね。
今、壁が注目されている背景とは?
佐保 今、改めて壁が注目されていますが、その背景とは?
永瀬 働き続ける女性が増え、共働き世帯は専業主婦(夫)世帯の2倍を超えました。また最低賃金引き上げや人手不足の影響でパートの時給は大きく上昇しています。にもかかわらず、いまだに103万円や130万円という壁があって、年収149万円までの非正規雇用労働者の約6割が就業調整をしている。ただでさえ人手不足なのに現場が回らないという悲鳴が上がっています。さらにこれから現役が減少し、高齢化の負担は増します。それなのに、女性の就業を抑制し、低賃金にとどめる政策はまったく非合理な政策です。
芳野 事態は深刻です。女性組合員からは、壁があるために自分のスキルを存分に活かせない、壁を取っ払ってほしいという声が多数届いています。
変化する若い世代の価値観
佐保 壁の解消に向けてどう取り組むべきでしょうか。
永瀬 まず、人口構成やライフスタイル、若い世代の価値観が大きく変化していることを受け止める必要があります。
日本が直面する最大の課題は少子化です。今後20年の間に労働力人口は1000万人以上縮小し、後期高齢人口はさらに増加する。社会保険や税制を働き方に中立的なものに見直し、全世代で支え合う仕組みにしなければ、社会を維持する労働者を確保できなくなり、かつ社会保障も持続不可能となります。
次世代を担う若い世代の意識や価値観は劇的に変化しています。『出生動向基本調査』における34歳以下の未婚女性の「予想のライフコース」を見ると、1987年は「専業主婦」が約25%、「結婚・出産退職して再就職」が43%、「仕事を続け、家庭と両立」が2割弱で、「非婚就業」は1割未満。また、未婚男性の8割が「妻を扶養する」と考えていた。ところが、2021年調査では、「非婚就業」が33%とトップで、「両立」28%、「再就職」23%、「専業主婦」はわずか4%弱。未婚男性も「妻に働き続けてほしい」が4割を占め、「専業主婦」を希望する人は7%でした。
最新の国勢調査を見ても、40~44歳の女性の3割が無配偶で、男性では生涯未婚率(50歳までに結婚していない人の割合)は28·3%にまで上昇しています。昭和の性別役割分業を前提とする税制・社会保障制度ではこの変化に対応できません。
芳野 税制·社会保障も支える側が急減する。この変化に対応した持続できる制度への見直しが求められています。
連合は、雇用形態や事業所の規模などにかかわらず、すべての労働者に社会保険を適用すべきと考え、パートタイム労働者の社会保険の適用拡大に取り組んできました。職場からは、「就業調整がなくなり、シフト調整や業務分担がしやすくなった」「収入が増え、責任のある仕事も任されるようになり、やりがいを感じることが多くなった」という声も届いています。
この問題は、すべての国民が当事者。一人ひとりが理解し、「ジブンゴト」として議論しないと、納得できる制度改革はできないと思っています。だから今、制度の理解促進活動から始めているんです。税や社会保障は複雑で難解ですが、それを学ぶ機会は本当に少ない。税や社会保険料を負担している働く人たちがその根拠や仕組みを知る機会を提供することは、連合の大事な役割だと思っています。
永瀬 心強いです。今、壁による就業調整をしている人は、主に40代、50代の女性です。20代、30代の正社員の女性は、育児休業や短時間勤務制度を使って働き続ける人が増えていて、男性の育児休業取得促進もその流れを後押ししている。その一方で、両立環境がない場合は、夫に頼る人生が現実的でないと、若い世代では非婚就業が増加している。
若い未婚女性は、正社員を含めて、子どもを持てば仕事機会を失うのではないかという不安を抱えています。どんな働き方でも、仕事を続けながら、女性だけでなく男性も子育てを応分に分担できる制度と社会意識が必要です。
壁問題は、専門家だけで議論していると昭和のモデルから抜けきれなくなる懸念があります。ぜひ若い世代の意見を反映させてほしいと思います。
改革の方向性とめざすべき制度とは?
佐保 具体的な改革に向けては?
芳野 現行の税制·社会保障制度は、昭和の性別役割分業、内助の功を前提とする片働き世帯をモデルとしてきました。でも、働き方もライフスタイルも多様化しています。改革の方向としては、やはり働き方やライフスタイルに中立的な制度にする必要があると考えています。未婚でも、結婚していても、離婚しても、公平に税·社会保険料を納め、給付を受ける。そう考えると、これまでのように世帯単位ではなく、個人単位に制度を見直す検討も必要だと思います。
永瀬 そして、子育ては社会全体で手当していく。非正規雇用の短時間雇用者の半数以上は年収149万円以下です。底上げに向けて日本独特の「同一労働同一賃金」の考え方を、見直す作業も必要になってくると思います。
芳野 すでに連合は「働きの価値に見合った賃金」という考え方を打ち出しています。企業は性別や雇用形態にかかわりなく働きに見合った賃金を支払い、社会保険を適用する。そうしないと、もはや人材を確保できません。
子育てをみんなで支え合う職場風土
永瀬 これからの女性労働についてどうお考えですか。
芳野 女性の活躍は進んでいますが、法律の網の目をくぐるかのように職場の中では見えない差別がまだ残っている。働く女性の半数はいわゆる非正規雇用で、男女の賃金格差も大きい。女性は仕事か子育てかの選択を迫られてきたけれども、男性は何の制約もなかった。それが今も残る差別の根底にある。だから、先生のおっしゃるように「社会全体で子育てに責任を持つ」仕組みをつくり、職場でも子育てをみんなで支え合う風土をつくりたいと思っています。
永瀬 女性会長の視点におおいに希望が持てました。社会を変える連合の運動に期待しています。
佐保 ありがとうございました。