連合結成秘話
[前編]労働4団体時代の背景

2023年10月5日・6日、連合第18回定期大会が開催された。
結成大会は、34年前となる1989年11月21日。新聞各紙は、労働界の悲願であった官民統一のナショナルセンター「連合」の誕生を一面トップで報じたという。
なぜ「悲願」と言われたのか。それは、連合結成に至るまで、日本の労働運動が離合集散を繰り返してきたからだ。その分立の構図を知らずして連合結成は語れない。
ということで、前編では、まず分立の背景と経緯について振り返っておこう。

ベルリンの壁崩壊と連合結成

連合結成の2週間ほど前の11月9日、東西ドイツを隔てるベルリンの壁が市民の手によって崩壊し、東西冷戦構造終焉の引き金となった。
奇しくも「連合結成=労働戦線統一」の背景にあった困難な問題の1つは、この「東(共産主義)」対「西(自由主義)」のイデオロギー対立だったのである。

自由にして民主的な労働運動

結成時から受け継がれる、連合の「綱領」第1項にはこう記されている。

  1. われわれは、自由にして民主的な労働運動の伝統を継承し、この理念の上に立って労働者の結集をはかり、労働運動の発展を期す。

その言葉に込められた意味を理解するために、日本の労働運動の歴史を起点から振り返っておこう。

19世紀後期、日本でも明治政府の富国強兵・殖産興業政策によって工業化が進み、製糸工場などで働く労働者が急増したが、多くは劣悪な労働環境に置かれていた。 
産業革命の先進国イギリスでは、1890年に労働組合が合法化され、労働者が団結して賃金や労働条件の改善に取り組んでいた。同時期、アメリカでも8時間労働制を求めるメーデーなどの行動が展開されていた。

そうした海外の動きを見聞きした労働者の呼びかけで、1897(明治30)年、日本の労働運動の始まりとなる「労働組合期成会」が結成される。期成会は、工場法の制定に精力的に取り組んだが、経営者の強い反対で実現はかなわなかった。
1900(明治33)年には、結社の自由を制限する治安警察法が制定され、労働組合は弾圧の対象となった。

大正元年の1912年、鈴木文治が「友愛会」を立ち上げた。「労働組合」を名乗ると弾圧されることから、穏健で合法的な活動に徹しつつ組織を拡大し、1919年に「大日本労働総同盟友愛会」を結成(1920年に「日本労働総同盟友愛会」、1921年に「日本労働総同盟」と改称)。「8時間労働制、結社の自由、治安警察法の廃止」などを求める運動方針を決定し、労使交渉を通じた労働条件の改善をめざした。

鈴木文治(写真中央)が友愛会を創立し労働運動がスタート(写真は5周年記念大会)
出所:友愛労働歴史館

1917年、ロシア革命が起きて、共産党一党独裁のソビエト政府が成立。指導者であったレーニンは、他国への革命の波及をめざす「世界革命論」を唱えていた。
こうした世界情勢の中で、日本でも1922年に日本共産党が結成された。同党の影響で1925年に「評議会」という名称の新しい労働団体が設立され、日本労働総同盟から分裂した。

昭和に入っても、労働者や農民の生活向上をめざす運動は様々な形で取り組まれたが、1937(昭和12)年に日中戦争が勃発。翌年には、戦争遂行に向けてすべての人的・物的資源を政府が統制運用できるとする国家総動員法が制定され、産業報国連盟が発足した。連盟は、戦争協力のための労働団体として、全国の工場や事業所に「産業報国会」の結成を指令。労働組合はすべて解散を余儀なくされ、1940年には「大日本産業報国会」が発足した。戦局が悪化するなか、「国家総動員体制」のもとで言論や結社の自由は圧殺された。特に共産党は厳しい弾圧で壊滅的状況に追い込まれた。

戦前の流れを受け継ぐ「総同盟」と「産別会議」

そして敗戦。戦時中から物資・食料は欠乏状態にあったが、戦後直後はそれがさらに悪化。国土は荒廃し、生産現場は操業を停止し、国民は窮乏の中にあったが、一方で、戦争体制からの解放を歓迎し、新しい日本をつくろうという気運も生まれていた。
1945年9月、産業報国会の解散が指示され、10月にはGHQが政治犯の即時釈放、治安警察法、治安維持法の廃止を指示。また「民主化の5大改革」として女性参政権の実現、労働組合結成促進、教育の自由化と民主化、秘密弾圧機構の廃止、経済機構の民主化が進められることとなった。

戦前からの労働組合活動家も活動を開始し、海員組合や東京交通労働組合などはいち早く再建に動き始めた。1945年12月には労働組合法が制定された。全国の生産現場や事業所で「労働組合をつくろう」という呼びかけが行われ、急速に労働組合の結成が進んでいった。

総同盟(日本労働組合総同盟)の結成(写真は第2回大会)
出所:友愛労働歴史館

こうした動きの中で結成されたのは、多くが企業別組合であったが、その結集体としての産業別組合や地域共闘も組織されていった。また、1946年8月には、戦前の「友愛会」を源流とする「総同盟(日本労働組合総同盟)」がナショナルセンターとして結成大会を開催。同月、戦前の「評議会」の流れを汲む「産別会議(全日本産業別労働組合会議)」も結成大会を開いた。さらに10月には、どちらにも属さない中立系組合が「日労(日本労働組合会議)」を結成した。

この時期の最大の課題は食料・物資の確保であったが、戦地からの復員が進む中で大量の解雇が指示される職場も続出。労働組合は、賃金の大幅引き上げや8時間労働制の実現、解雇反対闘争に全力をあげた。全国各地で、様々な産業で、ここには書ききれないほど激しく熱い労働運動が展開された。

労働者の要求は、餓死防止から始まった。
出所:公益財団法人総評会館

1947年1月15日、全官公庁共闘・総同盟・産別会議などが「全闘」結成大会を開催。傘下組合員数は400万人にのぼった。「全闘」は、2月1日にゼネラルストライキを実施すべく準備に入ったが、政府は中労委に調停を依頼。1月31日には、GHQがゼネスト中止命令を発した。空前の規模の2.1ストは中止を余儀なくされ、「全闘」は解散した。

共闘の挫折を経て、政治闘争と労働条件向上のどちらを重視するか、ストライキと労使協議のどちらを重視するかなど、戦略・戦術をめぐる対立が深まっていった。
産別会議に加盟する組合では、一部執行部を通じた共産党の支配・介入に対する疑問が広がり、民主的運営を求める組合役員が「民主化同盟」を名乗って活動を展開。1948年には「産別民主化同盟」を結成して産別会議から脱退し、同年、のちに労働4団体の1つとなる「全国産業別労働組合連合(新産別)」を発足させた。

さらに朝鮮戦争が本格化する中で、日本でもレッドパージ(共産党員などの排除)が実施され、産別会議は弱体化、1958年に解散に至った。
国際労働運動においても、米国とソ連邦を二極とする東西冷戦を背景に民主的労働運動と階級的労働運動が対立する状況が生まれた。1945年に世界労連(WFTU/世界労働組合連盟)が結成されていたが、1949年にはアメリカのAFL、CIOなどの反共産主義グループが脱退して国際自由労連(ICFTU/国際自由労働組合総連盟)を結成。のちに「国際自由労連加盟」は、日本の労働戦線統一の重要な結集軸の1つとなっていく。

労働4団体の時代へ

戦後復興期の労働運動の発展と混乱を経て、1950年、ナショナルセンター「総評」が結成された。これは、「総評・同盟・中立労連・新産別」という労働4団体時代の端緒となった。

総評結成大会(1950年7月11・12日)
出所:公益財団法人総評会館

総評は、総同盟の多数の組合と産別会議を脱退した組織などが参加して結成された。総同盟は残留したグループで再建。新産別は総評に参加したが、2年後に脱退。1954年には全繊同盟、海員組合などが総評を脱退し、「全労会議」を結成。その後、総同盟と合流して同盟となった。総評、総同盟、新産別のいずれにも属さない組合は、1956年に中立労連を結成した。

産別会議は弱体化したのに、なぜ分立状態が続くことになったのだろうか。

総評は、民主的労働運動のナショナルセンターとしてスタートし、その結集軸は「国際自由労連への加盟」だった。

国際自由労連(ICFTU)への一括加盟を否決した第3回総評大会(1952年7月)
出所:公益財団法人総評会館

ところが、1951年に高野実事務局長が就任すると、加盟方針を転換し、経済闘争よりも政治闘争に比重を置くようになる。「ニワトリからアヒルへ」と言われた方針転換に批判を強めた全繊同盟、海員組合、日放労、全映演は、1952年に「4単産声明」を発表し、1954年には総評を脱退し、「全労会議」を結成した。

全労会議結成(1954年4月22日)
出所:公益財団法人総評会館

政治の世界では、1955年に保守合同で自民党が成立、右派左派に分かれていた社会党も統一し、「55年体制」のもとで高度経済成長時代が幕を開けた。

総評では、政治闘争重視の方針を批判する太田薫議長・岩井章事務局長が産別統一闘争による賃上げの重要性を訴え、「春闘」がスタートした。
春闘は、1956年以降、総評の公式方針となり、中立系組合も参加する春闘共闘委員会が設置された。そして、高度成長期の「賃上げ→消費拡大→投資・輸出の拡大」という経済好循環システムの中で「国民春闘」として発展した。

初の総決起大会が、その後の「春闘」の出発点となった(1955年1月28日)
出所:公益財団法人総評会館

全労会議は、「春闘」には参加せず、独自の賃金闘争を展開。1962年の「同盟会議」を経て、1964年に「全日本労働総同盟(同盟)」を結成した。

IMF-JC結成と宝樹論文

こうして労働4団体が分立する体制が固まったが、それは労働戦線統一へのスタートでもあった。

ナショナルセンターが分立していれば、当然のことながら労働運動のパワーは分散する。賃金・労働条件はもちろん、労働法制や税制・社会保障などの政策・制度要求を実現するためにも共闘を広げる必要があるという問題意識が持たれるようになった。

新たな共闘を拓いたのは、1964年に結成された国際金属労連日本協議会(IMF-JC)だった。国際金属労連(IMF)の日本支部という触れ込みだったが、4団体の枠を超えて、鉄鋼、電機、金属機械、自動車など金属産業の単産が結集し、「JC春闘」を組織して春闘相場を牽引する存在となった。

国際金属労連日本協議会結成大会(1964年5月16日)
出所:公益財団法人総評会館

IMF-JC結成大会に参加した前川忠夫元連合副会長・JAM顧問は、「その背景には労働運動が時代の変化に対応できていないという、当時のリーダーたちの痛切な思いがあった」と証言する。

私自身も時代の変化を2つの点で感じていた。1つは、政治課題との関わり。60年安保闘争では国会前座り込みに参加したが、その後70年安保に向かう中で労働組合の関わり方はこのままでいいのかという思いが募っていた。
もう1つは政策・制度の実現。戦後復興、高度経済成長期を通じて、企業は成長し、労働組合も労使関係を通じて大きな成果を得てきた。しかし、企業労使の努力だけでは組合員の生活を守れない時代が来る、社会保障をはじめ政策・制度課題が重要になると感じるようになっていた。
政策・制度を実現するには、政治への働きかけが不可欠だが、当時は、東西冷戦を背景に体制イデオロギーが労働組合と政治の関係を規定していた。しかし、イデオロギーにとらわれていては、労働者・国民の生活を守る政策・制度は実現できない。
では何から始めればいいのかと考えたとき、第1の課題としてあったのは分立していた機械金属産業の労働組合の力を結集することだった。そうした単組の立場での取り組みが、日本の労働運動全体の統一にも重なり合っていったのだと思う。
(月刊連合2014年11月号より再構成)

68春闘共闘委員会(1967年10月23日)
出所:公益財団法人総評会館

そして1967年末、総評に加盟する全逓の宝樹文彦委員長が、『月刊労働問題』に労働戦線の統一を提起する論文を発表。金属産業労働者の結集を果たしたIMF-JCが存在感を増す中で、この論文を契機に統一への動きが本格化していくことになった。
背景には、高度成長期を通じて民間産業で働く労働者が増え、この時期、同盟の民間組合員数が総評のそれを上回るという状況もあった。

(後編に続く)

(執筆:落合けい)

◆参考文献・資料
ものがたり戦後労働運動史刊行委員会編(1997)『ものがたり戦後労働運動史Ⅰ—廃虚のなかから 2.1ゼネストの挫折』教育文化協会/第一書林

ものがたり戦後労働運動史刊行委員会編(2000)『ものがたり戦後労働運動史Ⅸ—政策推進労組会議の成立から統一準備会へ』教育文化協会/第一書林

髙木郁朗(2018)『ものがたり現代労働運動史1 1989〜1993—世界と日本の激動の中で』)教育文化協会/明石書店

髙木郁朗(2020)『ものがたり現代労働運動史2 1993〜1999—失われた10年の中で』)教育文化協会/明石書店

久谷與四郎(2015)『働く人を守る—「連合」25年の実像と役割』日本リーダーズ協会

藁科光治(1992)『連合築城—労働戦線統一はなぜ成功したか』日本評論社

『語り継ぐ 連合運動の原点』(日本労働組合総連合会発行、2014年)

『月刊連合』2014年11月号