働く女性たちが求めたのは
差別を禁止する「雇用平等法」の制定だった
6月は連合「男女平等月間」。これは、1985年6月の「男女雇用機会均等法」(以下、均等法)の公布を記念して2004年に連合が設定。以来、時々の男女平等課題をテーマに取り組みが推進されてきた。
なぜ、「均等法」なのか。それは、均等法制定が今からは想像できないほど大きな出来事であったからだ。そこでシリーズ第2回は、1970年代からの均等法制定をめぐる動きを手がかりに「女性と労働組合」の歴史を紐解いてみた。
めざしてきたのは「平等」でした
ここに一枚のポスターがある。コピーは、
めざしてきたのは「平等」でした。均等法10年目の結論
1996年、均等法の改正審議に向けた「つくろう! 男女雇用平等法」キャンペーンの一環で、連合女性局(当時)が作成したものだ。なぜ、「平等」をめざしてきたのか、なぜ「平等」にこだわるのか、少し歴史をさかのぼってみよう。
「男女雇用平等法」制定の運動が大きなうねりとなって展開されたのは、1970年代後半から80年代にかけてのことだ。連合結成前で、ナショナルセンターは4団体(総評・同盟・中立労連・新産別)に分立していたが、労働組合の女性たちは、その枠を超えて連携し、運動の大きな推進力となっていった。
1つの背景は、国際的な男女平等の流れだった。国連は、1975年を「国際婦人年」とし、それに続く「国連婦人の10年」を設定して、あらゆる分野の女性差別の撤廃に取り組むことを宣言。
日本では、1975年に、「国際婦人年」の世界女性会議に先立って、女性団体や労働組合の婦人部が結集して「国際婦人年連絡会」が結成された。さらに市川房枝参議院議員や田中寿美子参議院議員の呼びかけで「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」(以下、「行動を起こす会」)も結成された。「行動を起こす会」は、「私作る人、僕食べる人」というインスタントラーメンのCMに対し、男女の固定的役割にもとづくものとして抗議するなどの活動でも注目された。「国際婦人年日本大会」(実行委員長・市川房枝参議院議員)は、「国際婦人年連絡会」と「行動を起こす会」を中心とする民間団体主導で開催されている。
さらに1979年には国連で「女性差別撤廃条約」が採択された。正式名称は「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」。その名の通り、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他すべての分野において、女性の性にもとづく排除や制限、さらには区別も差別にあたると定義する、画期的な条約だった。
日本政府は、「条約批准は時期尚早」との姿勢を見せていたが、国際婦人年連絡会の強い働きかけで、1980年に署名に至った。条約批准のための国内法整備の課題は主に3つ。「国籍法改正(父系主義から父母両系主義へ)」、「高等学校の家庭科の男女共修」、そして「男女雇用平等法の制定」だった。
1980年11月に開催された「国連婦人の10年中間年 日本大会」で、山野和子総評婦人局長(当時)は、「国際婦人年連絡会」の重点課題として「雇用における男女平等の確保と差別の是正」をあげ、労働基準法第3条に「性別」を入れるとともに、募集・採用、教育訓練、配置・昇進、定年・退職という雇用の全ステージにおける差別の禁止と差別からの救済を行うことを目的とした「雇用平等法の制定」を強く提言した。「行動を起こす女たちの会」のメンバーを中心に「私たちの雇用平等法をつくる会」も結成された。
女性たちが雇用平等法の制定を強く求めたのは、雇用における様々な差別に苦しめられていたからだ。
募集は男性のみ、新卒女性の採用には自宅通勤のみなどの条件をつける、女性は研修に参加させない、男女別の賃金体系、女性は結婚したら退職(結婚退職慣行)、30歳前後で退職を強要する女子若年定年制、女性のみの掃除やお茶汲み当番などなど。
1970年代、すでに女性は雇用労働者の3分の1を占め、その半数以上は既婚者だった。ところが、結婚退職などの慣行が残り、働き続けたい女性は悔しい思いをしていた。労働基準法第4条で、男女同一賃金の原則を規定したのみであって、その他の事項については特段の規定はなく、そうした慣行を違法とする根拠法がなかった。
結婚退職制撤回を求める裁判(住友セメント事件)も起こされ勝訴したが、これは「民法90条の公序良俗に違反するから無効とする」という判決だった。
雇用における差別なのに、なぜ民法の公序良俗違反を根拠とするしかないのか。働く女性たちから、雇用における全ステージの女性差別を禁止する法律が必要だという声が高まっていた。労働組合の婦人部も、職場の女性差別の把握に努め、様々な対策を講じてきたが、それが労働組合全体の課題になりにくいことから、差別を禁止する法律が必要だという問題意識を強めていた。
そういう経緯があった中での「国際婦人年」であり、国際的な男女平等への機運に力を得て、多くの女性が国際婦人年連絡会に結集し、雇用平等法制定を求める運動に全力を挙げたのだ。労働組合の女性たちも、それぞれ組合活動を行いながら、総評・同盟・中立労連・新産別という垣根を越えて連携した。そこには、男女平等は人権の問題であり、雇用平等法がなければ職場の女性差別はなくせないという強い思いが共有されていた。
『労働運動を切り拓く』(旬報社)には、運動を担った労働組合の女性たちの証言が記されている。後に連合副事務局長を務めた高島順子同盟婦人局長(当時)は、4団体の枠を超えた運動について「絶対、分裂しない。決意しました。総評の山野さんと密に連絡をとり、最後まで一緒にやりました」と語っている。
女性差別撤廃条約批准のために苦渋の決断
しかし、雇用平等法の制定は、経営者側からの強い抵抗で難航を極めた。経営者側は、「差別」の存在を認めようとせず、平等を求めるなら労働基準法の女子保護規定を撤廃すべきだと主張。
例えば、当時の経済同友会は「男女の別は本来的なもので、それに応じて一般的には多くの違いがある。この点にそった役割、就業形態を直ちに“男女差別”というのは間違いである」(1984年)、日経連は「現在、我国の女子労働者の扱い方は、我国における社会通念や女子自身の職業意識・就業実態を反映したものであって、それなりの合理性をもって続いてきたというべきものである。それを今直ちに画一的に改めなければならないものとみることは早計ではないか」(1984年)、との見解を示している。
1970年代、「女性は結婚や妊娠・出産を機に退職して家事・育児に専念すべき」との男女役割分業の考え方が根強く存在したが、現実には、多くの女性が家庭と職業の両立の問題に直面していたのである。女性が雇用労働者の3分の1を占め、その半数が既婚者という中で、女性が職業生活と家庭生活との調和をはかり、その能力の有効な発揮を支援することを目的に勤労婦人福祉法が1972年に制定された。
さらに経営者団体は、労働基準法の女子保護規定の緩和を要望するようになった。こうした意向を受けて設置された労働基準法研究会は、1978年に「男女差別を禁止する新たな立法の必要性とあわせて、一般女子保護規定の見直し」を提言。これを受けて設置された「男女平等問題専門家会議」には、労働組合の女性役員も参画し、「男女平等のためには女性の妊娠・出産機能を考慮に入れた実質的平等が必要」という意見書を提出した。
これをベースに女性差別撤廃条約批准に向けた国内法整備の課題である法案の審議が開始されるはずであったが、1984年2月、「婦人少年問題審議会」に提起された「公益委員によるたたき台」は「募集・採用を事業主の努力義務とし、一般女子保護規定を緩和する」という内容だった。労働側委員は強く反発し、審議会の建議は「三論併記」となった。
労働省(当時)は、この建議を受けて法律案要綱を取りまとめたが、それは「勤労婦人福祉法の改正案」だった。
審議会労働側委員の山野和子総評婦人局長は、「審議会では、新しい法律をつくるということでずっと議論してきたにもかかわらず、勤労婦人福祉法の改正案であったことは背信行為」だとして審議拒否を決め、労働省前座り込み行動などの抗議行動を展開した。しかし、このままでは法律は成立できず、国連女性差別撤廃条約も批准できない。
「国連女性差別撤廃条約の批准は、婦人参政権に匹敵する価値のあるもの。だから、苦渋の決断で審議に復帰した。議論を始めてから足掛け9年を要した取り組みは苦難の連続だったが、もてる力は出し切った」と振り返る。
1985年5月、雇用平等法ではなく、勤労婦人福祉法改正による男女雇用機会均等法が可決・成立した。労働組合の女性たちは、「私たちが求める雇用平等法とはまったく違った」と批判しながらも、女性差別撤廃条約批准の意義は大きいとして均等法を受け入れ、次なる改正に向けた取り組みをスタートさせていった。
男性の働き方や役割を見直すことこそ大切
それから、10年。均等法の抜本改正が日程に上ってきた。
熊崎清子連合副事務局長(当時)は、「均等法は、女性のみを対象としたものであり、法として『男女平等』という仕組みはない。均等法施行から10年、女性雇用労働者は増加し、女性の職域拡大は進み、意識の面でも、自分の能力を高め、責任を持って働きたいという女性は増えている。一方で、差別が多様化し拡大している現実もある」との現状認識にもとづき、再び「つくろう!男女雇用平等法」をスローガンに掲げ、均等法施行10年の結論として、「めざしてきたのは平等でした。」と訴えかけた。
その「平等」の中身はどういうものなのか。
まず、片面性を解消し、枠組みとして男女対象の法律とする。雇用におけるすべてのステージ(募集・採用から定年・退職)における差別的取り扱いを禁止する。罰則、救済措置の充実によって実効性を高める。
さらに、新たに大きな問題となっていたセクシュアル・ハラスメントの禁止、コース別雇用管理などの間接差別の禁止も掲げた。セクシュアル・ハラスメントは、人権・労働権の問題であり、安全で健康で快適に働くための環境の問題であることが明確にされた。
女子保護規定については、従来の「一般女子保護規定」を男性にも拡張する形での男女共通規制を実現することを掲げた。
10年目の見直しについて、山野和子元総評婦人部長は「男女ともに仕事と家庭責任を両立させることを基本に、男性の働き方、役割を見直すという観点が大切だ。女性だけの問題となると、組織をあげて取り組むという構図にはなかなかならない」と説いている。
(執筆:落合けい)
(後編に続く)
《参考文献》
浅倉むつ子・萩原久美子・神尾真知子・井上久美枝・連合総合生活研究所編著(2018)『労働運動を切り拓く』(旬報社)
浅倉むつ子(2022)『新しい労働世界とジェンダー平等』(かもがわ出版)
国際婦人年連絡会編(2015)『時代を拓く女性たち 国際婦人年連絡会40年の記録』(バド・ウィメンズ・オフィス)
総評婦人局企画「風となれ土となれ 総評婦人労働運動39年」
「月刊連合」1996年9月号
《Webサイト》
国立女性教育会館女性デジタルアーカイブシステム
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