東日本大震災から6年経った今伝えたい、未来へのメッセージ

2017年3月16日

2011年3月11日の東日本大震災から6年を迎える。
被災地は、5年間の集中復興期間を経て、復興・創生のステージにあるが、生業や雇用の場を失った人々にとって生活基盤の再生は道半ばだ。いまだ仮設住宅に暮らさざるをえない人たち、ふるさとに帰れず避難生活を送る人たち、心の苦しみから抜け出せない人たちも数多くいる。

この6年の間、日本中の方々が、被災地に思いを馳せ、支援の輪を広げてきた。連合も、私たちにできること、連合だからできることのすべてに取り組んできた。大震災の発生を受け、ただちに「緊急政策要請」「救援カンパ」を行い、延べ約3万5000人の連合救援ボランティアを派遣。その後は「雇用の再生なくして復興・再生なし」との立場から、本格的な生活・雇用再建に向けた取り組みを継続し、「東北の子ども応援わんぱくプロジェクト」も実施した。そして昨年秋には、被災地に寄り添い続ける思いを示そうと、被災地の「いま」を伝えるプロジェクトとして「復興支援視察団」をスタート。12月には、これまでの連合の取り組みや被災地の現状をまとめた『東日本大震災から』を発行した。本書をもとに、被災当時の状況を振り返り、被災地の「いま」を見つめ、未来への軌跡をたどる。

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震災当時─忘れない、風化させない

6年前、三陸沖で発生したマグニチュード9.0の大地震とそれに伴う大津波が東北地方沿岸を襲い、1万5000人を超える人々が犠牲になった。大震災を「忘れない、風化させない」ために、いま一度、何が起きたのか、人々がどう行動したのか、当時の状況を振り返ろう。

どこもかしこも悲惨だ

当時の状況を、岩手県大船渡市で被災した太平洋セメント労働組合(JEC連合)の森享男さんは、「津波来襲時、私は工場敷地内の高台に避難した。逃げている途中、建物の隙間からあり得ない水位の海水が巨大な川のように陸地に向かって流れているのが見えた。(この工場は)終わった…。当時、労組の支部長をしていた私が真っ先に考えたのは、工場の存続とここで働く人の雇用であった」と振り返る。「水没した工場設備を復旧するのは困難を極めたが、誰一人弱音を吐かず」、5月には再開に向けて動き出した。

連合岩手宮古地域協議会の花輪政文議長は「一瞬でこれまでの生活が一変した。地面が割れるかと思った大地震。日本の万里の長城と言われた高さ10メートルの防浪堤をいとも容易く乗り越えた大津波。その後に起きた山火事。悲惨だ。どこもかしこも悲惨だ。…昔話のように聞かされていた明治、昭和の津波の話。まさか自分が体験するとは」と記す。

「工場は3棟のうちの1棟が倒壊、機械設備は塩水に完全に漬かり、工場内は瓦礫の山で埋め尽くされた」という、石巻合板工業労働組合(U‌Aゼンセン宮城県支部)の高瀬智章書記長。翌月には工場再開に向けて動き出したが、組合員には、家族を亡くした人、住宅が流失・全壊・浸水被害に遭い、避難所から出勤する人がたくさんいた。「震災の悲しみとこの先の不安を抱えての復興作業は、どれほどに辛いものであったか計り知れない。そこで、労働組合の役割として少しでも不安を解消できるよう社内に掲示板を用意したり、集会等で情報発信に務めた」と語る。

ライフラインに携わる組合員は不眠不休で復旧にあたった。大停電となった石巻市で東北電力労組の高橋文弥さんは「不安と絶望感の中、ライフラインを守るという使命感のもと、1カ月間家に帰らず、『力を合わせ復興へ』を営業所の旗印に復旧・復興に向け、朝から晩まで働いた」という。

地震・津波の被害に加え、原発事故に見舞われた福島では多くの人々が避難を余儀なくされた。JAM南東北福島県連絡会の深谷浩明事務局長は、「雇用の確保は企業再生から」を合言葉に「仮設住まいの生活必需品の手配、全国に散った組合員の帰還意思確認、職場の再開を望む声をJAM福島が中心となり取りまとめ、経営者に組合員の声を届け」、厳しい状況の中でも、一つも閉鎖することなくこの危機を乗り越えた。

「何か力になりたい」一心で

連合の救援ボランティア派遣の動きは迅速だった。山根木晴久連合総合組織局長は「震災の数日後に被災3県に入った役職員からは、あまりの惨状にボランティア派遣は困難との報告があったが、一方で、政府からは早期派遣の要請もあった。積極論と慎重論が交錯したが、被災3県の地方連合会による体制整備への懸命な努力と、構成組織の被災地への強い思いによる協力を得て、震災から20日で連合の旗のもとに集う災害救援ボランティアを立ち上げることができた」と振り返る。

3月31日、岩手、宮城、福島への第1陣が大型バスに乗り込み連合会館を出発。それから半年間、連合は「被災地・被災者に迷惑をかけない」「現地の指示に従う」「安全確保」という3つの原則のもと、延べ3万5000人という民間最大のボランティアを派遣した。「何か力になりたい」という一心で参加し、抜群のチームワークで被災地の信頼を得た連合ボランティア。荻山市朗(J‌R連合)さんは「ボランティアの本質は、施すことではなく、寄り添うことだと学びました」とその経験を振り返っている。

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被災地の「いま」を伝える連合復興支援視察

東日本大震災から6年。連合は、東日本大震災からの復興・再生を日本再生の最重要課題と位置づけ、さまざまな機会を通じて取り組みを進めてきた。特に、全国で取り組んだカンパ活動、そして延べ約3万5000人の組合員が参加した連合救援ボランティアの経験は、労働運動の原点ともいえる、「助け合い・支え合い」の実践として、貴重な財産となっている。
そのような中、被災3県の地方連合会からは、「ボランティアの方々に、あらためて感謝の意を表したい」「いま一度、被災地に足を運んでもらい、復興状況を見てもらいたい」と、連合救援ボランティア参加者との再会・交流を望む声が多く寄せられた。また、構成組織や地方連合会においても、復興支援活動を継続的に行う中で、被災地を再訪したいとの声が上がった。

そこで、あらためて震災と向き合うことをねらいとして、ボランティアに携わった皆さんと被災地を再訪・交流する「復興支援視察団」を編成。復興・復旧の進捗状況などを把握するとともに、植樹活動など復興に向けた取り組みを行うことを決めた。当初は、昨年8月に3県同時に実施する予定であったが、台風10号の接近で急きょ延期することとなり、11月末に宮城県、福島県を再訪した。岩手県は視察予定の宮古市や岩泉町の台風被害が甚大であったことから、現在、日程を再調整しているところだ。

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汗と泥にまみれ作業した当時の現場に立ち、再生した姿を前に心の震えが止まらない参加者、5年ぶりの被災者との再会に思わず涙した参加者の姿に接し、あらためてやって良かったと実感した。

「助け合い・支え合い」の実践を通じて結ばれた「絆」の尊さを再認識し、被災地、構成組織、地方連合会が連携し、いま一度、被災地に寄り添い続ける思いを行動で示していきたい。

 

 

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山根木晴久

連合総合組織局長

 

 

 

 

 

 

『東日本大震災から5年未来への軌跡』(2016年12月14日発行/A4判120頁)
震災当時の状況、連合救援ボランティア参加者の手記、復興進捗状況、被災地の人々の声、復興から始まった新しい取り組み、被災地復興への思いなどが綴られている。

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※こちらの記事は日本労働組合総連合会が企画・編集する「月刊連合 2017年3月号」に掲載された記事をWeb用に編集したものです。「月刊連合」の定期購読や電子書籍での購読についてはこちらをご覧ください。

 

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